そして目的地のアキダウーナ市に到着、そこで小さなペンソン(旅館)で一晩宿泊、翌日町の中を散歩、80余年前父もこの道を歩いたかも、と現在は発展した街中を歩き回った。そして古い教会の前で立ち止まり、「この教会も確かに父の姿を見ただろうなぁ」、と問うように合掌。胸を締めつけられるような感じであった。
郁太郎は、「父さん貴方のお望みどおり家族9名この国で楽しく暮らしております。ご安心下さい」、ご苦労さんでしたと胸に手を当て幻の父を偲ぶのであった。
そして、永遠に戻ることのない父最果ての地にお別れし、晴れ晴れとした気持ちで帰宅の途についた。霊前のトートーメーにロウソクを灯し、「貴方の遺志にそむかぬよう頑張ります。これまで通りに宜しく見守って下さい」、と合掌した。
その間母ちゃんは移転準備を整えてあった。そして1980年代の前半にビラ・カロンの僕の隣に住宅を購入し移転した。子供達も昼間は縫製業に専念し夜間学校に通学し、卒業後は僕と同業の化粧品店に転じた。3人の娘も嫁ぎ、息子たちもそれぞれ結婚、各自店を経営し住宅も購入して分家した。その間僕も家族同様親父のように慕い、何から何まで支援頂き大変おせわになった。感謝。
目標達成の子連れ移民
年々増える孫達に喜代おばあさんも幸せいっぱい、その世話に追われつつも食事の支度や洗濯など忙しい日々が続く。ある日、急に襲い掛かった脳梗塞に倒れ、看病する間もないまま他界した。1979年11月4日享年63歳だった。沖縄出航時誓った安定円満の家庭と育児の誓いを果たした移民妻のはかない締め括りであった。あれほど気丈な郁太郎翁も、「君のお陰で目的を達成することが出来た。長年お世話になった、苦労をかけた、ありがとう、ありがとう」、と無言の妻の顔をなで零れ落ちる涙さえ拭こうともしない悲しい別れが周りの涙を誘った。
その後、郁太郎翁は子供達の経営する店の近くに移転して子孫に囲まれ幸せの日々を送りながら、小禄田原ンチュ移民の記念誌編纂委員長などシマンチュ移民の歩みを研究、それこそシマンチュの宝・生き字引きのような存在であった。1979年に刊行された『小禄田原字人移民80周年記念誌』は、430頁に及ぶブラジル移民字誌である。ブラジル在住の字出身700所帯3500人以上の実態調査を手がけ、40を超す門中の屋号まで克明に記録した類まれにみる字移民誌である。その編集長を務めたのが郁太郎翁であった。
移住して52年、悲願であった亡き父の悲しい歩みも明かし、子孫からの贈り物の郷土訪問、古希、米寿祝いなど家族円満の目的を果たした郁太郎翁も天寿を全うされ家族の見守る中、妻や父のいる天国へと旅立った。2006年3月26日、享年89才だった。
大国ブラジルの地でファゼンデーロには成れなかったが、金城郁太郎家を大きく成長させ、子孫繁盛の目的を達成したある移民の物語である。(お終わり)