最初の小学校は、中央区にできた。移住地の開設早々の1932年に仮教室、生徒13名で始め、翌年に校舎を建設、開校した。以後、区ごとに、入植者がある程度の数になると、新設した。
学校には、日本語科とポルトガル語科を設け、正式認可を州政府の学務局に申請した。認可が下ると、校長やポ語の先生が、学務局から派遣されてきた。日本語科は区会で世話をみた。
各区には青年団もでき、その連合体トゥレス・バーラス青年連盟も発足した。
産業組合(農協)や商工組合、その他諸機関も生まれた。いずれも名称には「トウレス・バーラス」の文字を冠していた。1940年、サンパウロにブラ拓を母体とする南米銀行が設立されると、ここにも支店が開かれた。
同年、パラナ州政府の農務局からの申し入れで、農事試験場が移住地内に開設されることになった。州からも期待されていたわけである。
かくして移住地は、漸次、自治体制を整えて行った。
ただ、小学校の日本語科は1937年、ブラジル政府が、14歳未満の児童に対する外国語教育禁止令を出したため、閉鎖された。
さらに市街地のアサヒランジャという名称は、この国にナショナリズムが昂揚してきたことを配慮、アサイと改称した。
そのアサイは中央区から分離して、独自の……区会ならぬ町会をつくった。
あら、人間だヨ!
ここで、当時の移住地内の状景を、三項目に渡って描写しておく。
開拓着手の時期は、区によって違ったが、どこも初期の頃は、原始林ばかりで、猿の群れがキイキイ奇声を発しつつ枝から枝へ飛び移り、ペリキット(おおむ)の大群が空一杯鳴きながら飛び、蝶々が紙ふぶきの様に舞い上がっていた。森の中は昼なお暗く、ひんやりした大気が甘い香りを漂わせ、爽快だった。
もっとも、年端の行かない子供が一人で歩く場合、余り爽快でもなかった。学校へ行く道が鬱蒼たる森の中を通っており、人影もなく、代わりに猿の群れが恐ろしい声で威嚇する。途中から、泣き泣き引き返す子供もいた。
その子供たちの家は、同じ区でも、かなり広範囲に散在、隣の家まで何キロもある処もあった。親が入植時、それぞれ気に入ったロッテを選んで買ったためである。
こういう所では、まず人恋しくなるもので、人間を見るのが楽しく、子供たちは、偶に新しい入植者が、近くのロッテを下見に来たりすると「あら、人間だヨ!」と、はしゃいだ。
その子供たちは大抵、裸足で、空き袋でつくったカミーザを着ていた。菓子などは無かったから、畑に行って人参や大根を抜いて生で食べた。甘くておいしかった。男の子は、いたずらや喧嘩をして楽しんだ。女の子の場合は──資料類にある当人たちの後年の思い出話よると──こんな様子であった。
「入植当初は、野菜一つありませんでしたので、蒔いた種が生えるのを、見に行くのが楽しみでした」
「遠くの山に雨脚が見えて、やがて激しい雨が降って、ミーリョが倒されると、とても悲しかった。反対にセッカで枯れそうになっていたミーリョが生き返ると、とても嬉しかった」
「森の中で働く父や兄に、お弁当を持って行きました。マッシャード(斧)の音を頼りに、倒れた大木を跨ぎながら行くので、カフェーが零れて、着いた時はなくなっていました」
子供たちは、慣れるまでは猿の群れに脅えることもあったが、学校に行くことを喜んだ。家に居ると、仕事に追い使われるからだった。現に学校から帰ると、ラッタを吊るした天秤棒を担いで、水汲みに数十㍍離れた川に行かされた。夜の米搗きも子供の仕事だった。学校に居る間は、そういうことはなかった。
ただ、それも小学校までだった。13、4歳になると、もう立派な労働力であり、仕事に駆り出された。
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