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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(58)

アサイ友の会の会館

アサイ友の会の会館

アサイとトゥレス・バーラス

 1944年、市街地アサイはムニシピオに昇格した。周辺の区の多くは、その新ムニシピオに編入された。が、区の全部または一部が、隣接する別のムニシピオに編入された所もあった。その結果、トゥレス・バーラス移住地は、幾つものムニシピオに分割された。
 今日、一般的には「トゥレス・バーラスが改称してアサイになった」と思い込んでいる人が多いが、事実は右の通りである。
 ただ、地元の日系社会は、その後、アサイという言葉を、トゥレス・バーラス移住地の総てを指して使用するようになった。
 さらに移住地の外縁に──ブラ拓とは関係なく──幾つかの日本人の入植地ができた。これも連合日本人会に参加、区、セッソンと呼ばれた。自然そこもトゥレス・バーラス移住地ということになった。従って、アサイという言葉は──ムニシピオは違っても──これも含めて使用されるようになった。
 本稿で右に倣い、以下「アサイ」で統一する。

ここでも、同胞社会に亀裂

 1945年8月、戦争は終った。が、戦後も枢軸国人の取締令は生きていて、セボロン区で日本の国旗を掲揚した咎で、区会の役員5人が拘引された。以後、取締りは徐々に緩和された。それに伴い、日本人会、青年団、小学校(日本語)が息を吹き返した。
 1950年以降、資産凍結令も解け、企業に対する監察は終わり、経営者や管理職者も──ブラジル人が送り込まれていた場合は──日本人に戻った。
 ただ(サンパウロ市の)ブラ拓本部は戦中、清算命令を受け、業務は停止していた。そのまま戦後、解散した。移住地の事務所も同じだった。しかし元々、入植者による自治を目指し、それが進展していたため、大きな影響はなかった。
 アサイは再出発しつつあった。ところが、他地域と同様、ここでも、同胞社会に亀裂が走った。戦勝派と敗戦派の対立である。日本人会や青年団、日本語学校が二つできた区もあった。連合日本人会、青年聯盟も割れた。
 前出のペローバ区の清水家では、父親が祖国の敗戦報を聞いて泣いた。父が泣いたのは初めてだった。家族も敗戦を認識、長男が区の青年団の会報に「日本は負けた。だから日本に助力しなければならない」という趣旨の投稿をした。
 すると清水家の息子たちは皆、青年団から除名された。区会からも清水家は除名された。区の住民の殆どは戦勝派だったのである。除名は数年続いたが、息子たちが通っていた夜学の先生が、解除運動をしてくれ元に戻った。
 勝ち負けの対立に関連、ペローバ区では撃合いも起きた。戦勝派だった住民が敗戦派に変わったということで「裏切り者」と追及され、危険を感じ逃げだした。清水農場の傍まで逃げてきた。それを追ってくる者がいて、撃ち合う銃声が聞こえた。