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山田ネウザさんと母房子さん
山田ネウザさんと母房子さん

「戦争中ひどく迫害された」=アマゾン移民第1陣に聞く=生存者3人の1人、山田房子さん

 1929年9月に第1回アマゾン移民がトメアスー移住地に入植した。その第一陣の生き残りは同地に住む山田元さんを始め、山田イザウラ房子さん(87、静岡県三島市)、その姉の池谷ハナさん(92、同)の3人のみ。同地移住86周年を祝う中、日伯外交関係樹立120周年で秋篠宮同妃両殿下がパラー州都ベレンをご訪問された折に、房子さんを訪ねて話を聞いた。

 「1歳2カ月だったから、移民船の中のことは何も覚えていないわ」と笑う房子さんの生涯は、まさにアマゾン移民史そのもの。同地域最大のスーパーマーケット網「Y・YAMADA」の2代目社長の故純一郎さんの妻、現社長フェルナンドさんの母だ。
 7人兄弟の一番下。両親がアマゾン移住を決意した理由を「日本で戦争が始まりそうな気配を感じて、やって来たんじゃないかしら。もし日本に残っていたら、家族の何人かは戦死していた」と推測する。
 静岡県沼津市で果物商をしていた義父(山田義雄)だが、渡伯直後は農業に従事した。でも以前から志していた商業に初進出し、最初に八百屋を開業したのが、両殿下が今回視察されたヴェル・オ・ペーゾ市場だった。
 1942年8月にドイツ潜水艦がブラジル商船をベレン沖で沈没させたことから、市民が枢軸国移民の家や商店の焼き討ちを始め、大変なことになった。「父も兄も強制収容所になっていたトメアスーに送られ、義父はお店を壊された上、スパイ容疑でこの町の刑務所に1年以上も勾留された」と苦難の日々を思い出す。
 「ドイツ移民もいたけど少なかった。圧倒的に多かったのは日本移民で、目立つから特に狙われた。私も戦前はベレンで学校に通っていたけど、戦中は親が農業を営むサンタイザベルで目立たない様に大人しくしていた」。
 義父は1950年、ベレン市内で農業資材店として「Y・YAMADA」を創業し、57年から家電製品などを扱い始め、徐々にスーパーとして台頭した。房子さんの父と義父がトメアスー入植仲間だったことから、24歳で見合い結婚した。ポ語が不得手な義父の右腕になったのが、子供移民でポ語が達者だった夫純一郎さんだ。
 初期の頃から一般庶民に信用分割販売をする独特な商法で人気を集め、現在では32店(うち薬局8店)、直接雇用社員だけで約5200人を誇る。
 房子さんは「秋篠宮殿下が来られたことはベレン市民全体にとっての誇り。今日は記念すべき日」とし、娘のネウザさんも「日伯関係を太くする。しかも義雄が店を始めたヴェル・オ・ペーゾ市場に行かれたことは、とても感慨ぶかい」と喜んだ。


■ひとマチ点描■パラー会議所12月に30周年

パラー州日伯商工会議所の山田フェルナンド会頭

パラー州日伯商工会議所の山田フェルナンド会頭

 今年30周年を迎えたパラー州日伯商工会議所の初代会頭は、山田純一郎さんが21年間も務めた。9年前に2代目を継いだのが息子フェルナンドさん=写真=で、彼は全伯スーパーマーケット協会の会長職にも就く。
 12月11日には「会議所30周年記念式典」を兼ねた忘年会を、秋篠宮同妃両殿下もご宿泊された、ベレン最高級のホテル「プリンセーザ・ロウサン」で行う予定。会員企業はY・YAMADAを始め、オヤモタ・ド・ブラジル、アルブラス、ニチレイ関係など55社も。
 レシフェ領事事務所を再び「総領事館」に格上げする話も聞こえてくるが、皇室を4度も迎え、日系社会も活発、商議所も堂々たる30周年。こんなに大活躍しているベレンは領事事務所のままでいいの? (深)


□関連コラム□大耳小耳

 山田ネウザさんによれば、父純一郎は日系初のサッカーチーム「Yamada Clube de Belem」を1955年頃に創立し、1990年頃まで続けた。最盛期の87年にはパラー州の1部リーグで7位にまでなった。当時はスポーツクラブ自体がベレンでは珍しかったようだ。房子さんは「夫は自分ではサッカーやらないのよ。でも従業員がやりたがったからって作った。そしてスポーツを通して青少年教育をしようとしたの」と思い出す。義雄は柔道4段でコンデ・コマの盟友でもあり、スポーツに理解が深かった。その遺伝子がブラジル式のサッカーに結実したようだ。
     ◎
 Y・YAMADAでは毎年1月初めに会社が親睦新年会を主催し、従業員自らもアトラクションを考えて参加し楽しんできたと、山田ネウザさんはいう。5千人もの従業員を抱えるから大フェスタだ。ネウザさんは「今じゃすっかり有名になったガビー・アマラントス(Gaby Amarantos)なんかも、無名時代に呼んで歌わせたのよ」と懐かしむ。ただし昨年から不景気感が増し、純一郎さん(今年4月に逝去)の病状が悪化したこともあり、昨年末から一時中止になっているとか。地域や従業員のために尽くす同社の姿勢には学ぶところが多い。