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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(64)

 前出のアンシエッタ仲間の、その後に触れておく──。
 吉川吉郎は、アサイに来てしばらくは公民学園の先生をしていた。が、サンパウロへ帰った。父親の吉川中佐もそうした。
 松本勇は、谷田の製材所のそばに建物を借り、ガラナを生産した。製材所に発電機があったので、それを利用させて貰うためだった。生産はうまく行った。アサイはガラナの成りがよかった。が、運悪く故人となった。
 佐藤正雄は、長くアサイに住み、シャカラで野菜をつくってフェイラで売っていた。
 息子の正信は、当初、谷田の製材所で働いていた。が、原木が少なくなり、谷田は製材所を(アサイから西北120キロほどの)ロバットという所に移した。正信も同僚と一緒に転勤した。が、やがて自立してローランジァに転じ養鶏・野菜づくりに従事した。
 彼らアンシエッタ仲間は、アサイに来てからは──すでに記した通り──子供を公民学園に入れたり、自身が先生になったり、直訴状に名前を連ねたりした。が、それ以外に、谷田と共に何か特別のことをした──という痕跡は見つからない。谷田に対し、どの様な思いを抱いていたかも不明である。
 当初は、その信念と情熱に共鳴していたであろう。しかし時が経ち日本の戦勝説が崩れて行く中で、複雑に変化して行ったのではあるまいか──。
 それと、吉川中佐であるが……そのアサイ滞在は重みがあったろう。しかし中佐自身は「サンパウロに居ると、臣聯に関連、種々不快なことがあり、それを避けるために」軽い気持ちでアサイに来た……そういう節があった。
 中佐は一時期、臣聯を象徴した人である。しかし、それにしては意外なことだが、その心は臣聯(あるいは聯盟員)離れをしていた──という証言もある。これについては『百年の水流』改訂版で記した。
 ともかく、個性の強い谷田とアンシエッタ仲間が、いつまでも息が合っていたかどうか……は疑問である。
 なお、佐藤正信は長命、2000年代まで健在であった。筆者も一度会ったが、その時に貰った自分史によると、日本には4度も行っている。
 往時から数十年が過ぎており、帰国手続きの問題も解決していたのであろう。ただし観光を兼ねたごく普通の訪日であった。(この章の終わりの方で、一部の区の教育勅語奉読の話が出てくるが、公民学園とは直接的関係はない)