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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(65)

伊予の放蕩児とカフェー景気

 アサイの主作物の一つであった綿は、戦後、採算が芳しくなくなった。政府の為替政策の影響で、輸入品の農薬の価格が上昇したためである。それに代わって景気が出たのが、もう一つの主作物カフェーだった。
 すでに何度か触れたことであるが、カフェーは、終戦の年から1950年代にかけて、世界的に需要が上昇した。「戦争が終わったから、ゆっくり、コーヒーを飲もう」という気分が世界に広まったからだ……という説があるが、本当かもしれない。
 これで値が良くなり、アサイのカフェー生産者も大いに潤った。筆者は、その様子を表現できる何か適当な材料がないか……と探してみた。が、ただの儲け話では、つまらない。それよりも、心に余韻が残る話が欲しかった。幸い、適当な事例が見つかった。
 セードロ区に居った池田栄太郎という愛媛県人の話である。
 栄太郎は1879(明12)年、伊予に生まれ、笠戸丸で渡航してきた。無論、遠い昔に故人になっているが、その次男の夫人郷子(さとこ)さんが、2015年現在、83歳でロンドリーナ市内に元気で暮していた。その話によると──。
 栄太郎の生家は漁師、それも網元かそれに近かったようで、経済的には恵まれている方だった。家は実兄が継いでいた。
 栄太郎は青年期、放蕩に溺れた。芸者買いやバクチに明け暮れ、正月も家に帰らないという有様。実兄が心配して「ブラジルへ渡って心機一転、再出発する」ように勧めた。1908(明41)年のことで、伊予の南、土佐の人水野龍が、移民を送り出そうとしていた。栄太郎はこれに応募、結婚して出発した。妻の兄も同行した。
 出発に際し実兄は「5年経ったら、必ず戻って来いよ」と懐中時計を贈った。当時は貴重品であった。栄太郎は30歳に近かった。
 渡航後、三人はソロカバナ線トゥレーゼ・デ・マイオ駅のファゼンダ・ソブラードに配耕された。(この辺りは、現在はサン・マヌエル市となっている)

家族連れで、 流浪30年

 笠戸丸移民の大半が、配耕先のファゼンダから逃亡したことは、よく知られているが、栄太郎たちも3カ月で、そうした。以後、流浪の生活を続けた。初期の頃は、同じ伊予から来た東野音市、橋本重左衛門と一緒だった。無論、その家族も……である。男たちは船大工をして働いた。皆、海辺の育ちで、その経験があった。
 栄太郎夫婦には、その間、子供が次々生まれた。苦しい生活であったという。僅かの持ち金を、人に貸して戻らないこともあった。その内、妻の兄が鉄道工事を請負ってひと儲けし、帰国することになった。栄太郎に「船賃を出すから一緒に帰らないか?」と誘ってくれたが、自分の金で帰ると断った。しかし自分の金はできぬまま、流浪の生活は続いた。
 三角ミナスのジュンケーラに居たことがある。同地のファゼンダで、ほかの日本人たちと、米作りのコロノをしていた。ところが、このコロノとブラジル人の雇用主との間で、争いが起きた。それが険悪化する中、日本人が二人死んだ。一人はピストルの暴発、もう一人は河に落ちた……ということになっているが、単なる事故とは思えなかった。
 リベイロン・プレットに移り、ファゼンダを転々とした。ここでも、来る年も来る年も恵まれず、どん底生活を続けた。持病のリュウマチで苦しんだ。
 普通なら、精も根も尽き果てたであろう。しかし、この伊予の放蕩児は豪気な性格で、屈しなかった。ドラデンセ線イビチンガに移り、折から景気が出ていた綿をつくって、やっと一息ついた。ブラジル渡航以来、ほぼ30年が過ぎていた。