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パラグアイ=入植地調査よもやま話=坂本邦雄=(3)

ラ・コルメナ移住地開拓初期の貴重な写真。山切り作業に奉仕したパラ拓職員に母テルと邦雄が弁当を届けた時の写真(左から1人目は平出、2人目は笠松、4人目は内田支配人、5人目は石井、6人目は藤勝、7人目は関根、8人目は酒井、9人目は母テル。後列で立っているのが森谷、1人おいて邦雄)

ラ・コルメナ移住地開拓初期の貴重な写真。山切り作業に奉仕したパラ拓職員に母テルと邦雄が弁当を届けた時の写真(左から1人目は平出、2人目は笠松、4人目は内田支配人、5人目は石井、6人目は藤勝、7人目は関根、8人目は酒井、9人目は母テル。後列で立っているのが森谷、1人おいて邦雄)

 ところが、アスンシォン港に着いて上陸し、市内に入っても、いつまでも都市らしい街が見えず、アスンシォン市はまだ遠いのかと尋ねたが「イヤ、ここがアスンシォン市なのです」との返事に、黒田公使もいささか驚いたと言う。
 当時のアスンシォン市といえば人口20万人位の都市で、近代的な様相は更々なく牧歌的だが、国民は純朴で親切な人々だと初めての外来者の好印象に残るのが一つの取り柄だった。
 これが、貧しいが素朴でもてなし好きの無類の親日国パラグァイの為に何とか一肌脱ごうと黒田公使をしてまず決意させたのは、必ずしも偶然ではなかろう。
 そして、この小さな農牧業立国のパラグァイの発展に寄与すべき日本の協力は、日本人移住者の導入による農牧業開発、生産物輸送網の近代化、ひいては工業の振興を促進しなければ内陸国パラグァイの進歩は望めないと言うのが、早速の雄大な黒田構想の骨子ではなかったかと思われる。
 その手始めとしていち早くパラグァイ政府と交渉が進められたのが30年間に8万5千人の農業移民の導入を認める「日パ移住協定」(当初の提案は15万人だったらしい)と、それに付随する反対給付としてのパラグァイ国営商船隊に対する造船借款協定(380万米ドル)の2件であった。
 しかし、これらはあくまでも政府間の外交レベルでの交渉問題であり、公使館としては日本が移住地や商船隊の船を造るのは良いが、移住者の入植予定地の諸条件又は河船の喫水深度等の技術スペックをあらかじめある程度は把握しておかないと、パラグァイ側との有利な話も出来ないという訳で、その頃には公使館と前後して進出して来た日本海外移住振興会社㈱、アスンシォン支店(以下「振興会社」)が、まず入植適地予備調査をやれとの公使館のお達しである。
 よって、当時はすでに振興会社はブラジルサンパウロ市に現地法人ジャミック・JAMIC、それに信用金融関係のジェミス・JEMISを併せ置いていたが、同ジャミックから本社派遣員で農林省出身の瀬川幸吉技師とアシスタントの田中某(名前は失念)技師の二人をアスンシォンにその調査の為に送り込んで来た。
 そして、振興会社アスンシォン支店に入社して間もなかった私が、ご両人の現地調査の案内役と通訳を仰せつかった。
 ストロエスネル政権初期の時代で、政府は国家開発の〃看板〃の一つに「三角プラン」なるものを掲げていた。
 これはその名のごとく、アスンシォン―プレシデンテ・フランコ(現エステ市に隣接)―エンカルナシォン―アスンシォンを結ぶ三角地域の集中開発を目指す計画であった。
 したがい、今私が想像する限りでは、瀬川技師はその三角コースを念頭に入植適地調査の踏破を行うつもりだったのではと思う。
 さて、その準備だが、名付けて「瀬川調査チーム」の便宜に、時の西尾支店長用にアメリカから導入したばかりのウィリーのジープを充て、私が運転する事になった。