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パラグアイ=入植地調査よもやま話=坂本邦雄=(4)

1950年製のウィリーの参考写真

1950年製のウィリーの参考写真

 なんの事とはない、私がチームの案内、通訳、運転の3役を受け持ったのである。そして、瀬川、田中両技師と街へ出て、食料品店で缶詰、飲み物その他雑多な10日分ばかりの用品を揃え、ジープの後ろの「フタ」を開いて、その上に速成した代用荷台に上手く積み込んだ。
 この他にスコップ、アッチャ(斧)、マチェッテ(山刀)、それに応急医療品や毒蛇血清注射等も用意した。だが、もし、いざ毒蛇に噛まれたら誰が注射を出来るのかな等と思った。
 私は、蛇はゴムの匂いを嫌うと聞いていたので、古タイヤのゴムを打った半長靴を履いて行った。しばらくして用意万端が整い、「サア、明日はイヨイヨ出発だ」というその晩は黒田公使が公邸で吾が調査チームの〃壮行会〃だと申され、晩餐に招いてくれた。
 同席した黒田夫人が、「未開の土地調査は大変でしょう」と、色々ジープの性能などを聞かれ、「皆さん、気をつけて行ってらっしゃい」と、励まされた。
 翌日は一同会社の「虎の子」のジープに乗り込んで東方ブラジルフォス・ド・イグアスー市対岸のパ国側プレシデンテ・フランコ港町へ向けて勇んで出掛けた。
 その頃は、現在は急成長都市のシウダ・デル・エステと改名された旧プレシデンテ・ストロエスネル市の片鱗さえもいまだ見られなかった時代だった。
 途中のコロネル・オビエド市までの道路はまだ舗装されてない区間もあったが、まずは順調で、次のカアグアス市への道は材木搬出の林道のようなヒドイ道路だったが、我がジープはその威力を発揮し、難なくカアグアスに着き、第一日目の夜をここで明かした。
 しかし翌日からの道程は、政府が建設に取り掛かったブラジルへ向けての新国際道路計画線は伐開中で、とても通れたものではなく、昔からの材木業者の作業道路を辿って行くしかなかった。
 したがい、カアグアスから先のカンポ・ヌエベ(9)への道は大変なもので、途中で突き当たった前日の雨で増水したある川の、丸太を?いで架けた長い二本橋は、軌道が材木搬出トラックの車輪の幅に合わせて出来ていて、しかも半ばで曲がりくねっているのである。
 要はウィリスジープの車輪の幅はトラックよりも狭いので、それを特に曲がった箇所を踏み外さない様に上手く通すのが問題だった。
 そこで、同伴の田中技師がジープを降りて注意深く先導して下れて〃鰻の寝床〃の様な丸木橋を無事渡ったが、瀬川技師は随分ヒヤヒヤしたらしい。
 それからの道もメノニタ植民地の先住入植者で、当時はパラグァイでは無かったキャタピラーの一番大型のD-8ブルドーザーの持ち主が、土木省との契約で原始林を伐開して開いた赤紫土(テラローシャ)の新国道予定線を、がたぴしジープに揉まれながらパラナ河畔のプレシデンテ・フランコの、いまだ電気もない暗い町に着いたのが既に夜更けだった。
 さて、翌朝そこからの行程はモンダイ滝の上流を危なっかしくジープを渡し、一路エンカルナシォンへ南下する予定だった。