マリオさんは、日本移民史の研究家でもある。だから、祖父の家は史跡として保存する目的もあった。筆者は、その家を訪れてみたが、当時の移民の暮しを知る上で、非常に参考になった。
外観は小さな感じだが、中に入ると広く、部屋数も多く、住宅としては申し分ない造りであった。当時の移民の暮らしを実感できた。煉瓦づくり、白壁という構造ではなく、木製だったが、丁寧なつくりで、この方が自然の空気が漂い、心地よかった。家の前に、名も知らぬ樹が真紅の花を咲かせていた。栄太郎が植えたものという。
その栄太郎たち笠戸丸移民を率いてきた水野龍を、マリオさんは研究、高く評価している。筆者の水野観とは反対である。しかし歴史観というものは人によって違う。なんら問題はない(違うからといって排除するのは、歴史研究の原則を知らないことを意味する)。
マリオさんは、水野龍を愛する余り、その息子の龍三郎さん一家を支援し続けている。勝ち組・負け組抗争についても研究している。愛知県人会でスピーチをしたら、二、三世層の聴衆から大変な反響があった。その後、アチコチから講演の依頼があり、出かけている。
白い黄金郷の盛衰
北パラナの人々には、忘れがたい思い出を残したカフェー景気であった。が、すでに何度も触れた様に、1950年代の前半以降、数年ごとの降霜、フェルージェンの侵入で、痛めつけられた。そして1975年の大凍害で、トドメを刺された。
アサイの場合も同じであった。が、幸い、もう一つの主作物の綿が、1960年代から景気が出、70年代まで続いた。誰もが酔う様に植えた。生産量は急増、アンダーソン・クレイトンを含む6社がアサイに精綿工場をつくった。本稿一章で名が出た上野米蔵の工場も、その一つであった。
この綿のお陰で、州税の納入額が、アサイは3番目のムニシピオになったこともある。今は何十番目か判らないほど下の方だという。アサイはパラナ一の綿の生産地として国際的にも知られた。綿はオーロ・ブランコ=白い黄金=と呼ばれた。アサイは白い黄金郷となった。
その綿景気も、やがて翳り始めた。これは北パラナ全域に渡ってのことだが、生産性が低下し続けたのである。そのことについては後述する。
コチアも道連れ
1980年代の末、コチア産組がアサイに紡績工場を建設した。北パラナの組合員の綿を糸に加工、付加価値をつけて売り、生産性の低下を補おうとしたのである。
建設資金はパラナ州開発銀行から長期・低利の融資が出ることになっていた。ところが、事前に約束されていたその融資が、実質三分の一しか実行されなかった。この時、コチアは資金繰りに窮して、民間銀行の高利の資金に手を出してしまった。
同時期、ブラジル経済は大破局に突入していた。ハイパー・インフレが発生、利子が狂騰、紡績工場は操業開始前に破産──という前代未聞のプロジェクトと化した。これが主因の一つとなり、コチアは解散に追い込まれた。
1990年代中頃、アサイから綿は完全に消えた。綿はアサイに黄金郷を出現させたが、それを滅ぼし、コチア産組も道連れにした。波及的に無数の人間の人生を狂わせた。