気になる一事
話を進める前に、筆者には気になる一事があるので、ここで、それを片づけておく。
30年前、赤木平十さんが、馬泥棒を追っていた途次、路傍に見つけた野生の棉は、建設失敗の危機にあったトゥレス・バーラス移住地を救い、以後二度に渡って繁栄させた。平十さんの存在感は大である。しかし資料類に目を通すと、扱いが、それほどでもない。
筆者の疑問に、往事を知る地元の一住人は「平十さんは、頭は良かったが、人格的には……」と複雑な表情で答えた。
人間という生きモノは、誰でも完璧たりえない──という感慨を筆者は、ここでも覚えた。
しかし何があったのだろうか? 詳しいことは、この住人も語らなかったが、資料類を調べている内に、気づいたことがある。平十さんは、移住地の開設以来、種々の役職に着いている。が、長続きしていない。
もう一つ。地元の産業組合は1953年に潰れているが、その時、7人の理事が資金繰りの手形に署名していたため、皆、自殺を考えるほど苦しんだ。彼らは「七人の犠牲者」として、名前を記録されている。が、そこに同じ理事であった平十さんの名前はない。資産を息子の名義に変えていたという。
人の生き方とは難しいものである。
嫌気がさした人々
本題に戻ると、1932年、日本政府によって開設されたこの国策移住地は、カフェーで一度、綿で二度、大型の景気に恵まれた。
ほかに1970年代前半から、ウーバ・イタリアの景気が出、大生産地となり、ほぼ10年、続いた。
四度に渡って、本格的な好況の波に乗ったのである。2015年現在、数年前から続いている大豆景気も加えれば、五度になる。
決して悪くはない営農史である。しかし現実には、アサイの日本人・日系人、特に農業者は激減してしまっている。
最多期は1950年代初期で、2500~3000家族居って殆どが農業に従事していた。が、2015年、住民は500家族、農業は100家族余という。
こうなったのは何故か? 無論、日本人(一世)の高齢化・他界も影響したが、それだけではない。前出の、この地に八十年暮しているという御老人が、それを、こう明かした。
「まず、終戦後、祖国が戦争に負けたということで、日本人としての自信を失い、日本人の移住地をつくる意欲を失った」
これは重要な点である。後々まで響いたであろう。しかも、以後も営農を続けることに嫌気がさす現象が、幾つも発生している。
呪わしき霜
それは、まず霜であった。
すでに本稿で何度も触れたが、霜! 農業者にとって、かほど呪わしいモノはなかった。何年も丹精込めて育て上げたカフェー樹が、一夜にして枯れてしまうのである。
では何故、そんな土地に入植したのか……ということになるが、初期の頃は、霜は、それほど多くなかったのだ。
北パラナが、かつて大原始林地帯であった頃、降霜があったかどうかは、記録そのものが存在しないため、判らない。しかし開発が進み、原始林が減るに従って、降霜が多くなったことは確かである。
開発と降霜の因果関係については、専門家に任せるが、
「人間が一木も残さず伐り尽した原始林によって、報復された──」
と歎く人もいる。
アサイでは、1942年に降霜があったが、その後はなく、戦後、1953、55年と二度、続いた。これで衝撃を受け、生産者の半数が他地方へ転じてしまった。
以後も数年ごとに霜は来た。その何回かに一度は大霜となった。カフェーを続けようとする人々は北伯へ移動した。
付記しておけば、降霜があった場合、カフェーの市況は上昇する。従って、在庫を多く持っていれば、それで、ある程度はカバーできる。しかし、それにも限度がある。
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