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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(72)

今や日系は10パーセント

 1957年、入植25周年を機に実施された人口調査に、それが現れている。この調査は、ブラ拓が造った区のみを対象としているが、住民は日本人・日系人1万1000人に対し、非日系2万7000人、計3万8000人となっている。日本人・日系人は、この時点で、すでに30%を割っていたのである。
 こういう具合に、非日系人の比率が早くから高くなったのは、綿やカフェーの好況期、外部からカマラーダを、大量に入れたことにある。営農規模を拡大させ、人手が足りなくなり、そうしたのである。カマラーダの多くは、外部から来て、そのまま住み着いた。これで非日系人の比率が膨張した。
 2015年、アサイの人口は──これはムニシピオ・アサイのそれであるが──1万数千人、日本人・日系人は、その10%くらいという。

会員13家族の文協も…

 人口の減少は、文協などの社会活動の収縮も招いている。そういう意味での日本色も消えつつある。
 戦前の区会は戦中に活動を停止し、戦後、文協として復活した。1957年の記録だと、20前後の区に文協があった。(ブラ拓がつくった区以外の区も含めた数字)
 2015年現在は11になっている。その11区もそれぞれ、人口が激減しているから、活動も、その影響を強く受けている。
 11の文協をまとめているのが、かつてのトゥレス・バーラス連合日本人会、現在のアサイ文化連合会であるが、傘下の文協が、右の様な頽勢にあるため、運営は大変な様だ。
 地元の人は「唯一、活動が活発で順調に運営している文協」として市街地のSAMA=アサイ友の会=をあげた。
 SAMAは、かつての敗戦派のアサイ市会の後身である。
 こんな話も聞いた。
「会員は13家族に減っているが、文協は維持して運動会もやっている、と報告してきている区もあります」
 これは、ほほえましく感じた。あるいは。それが自然の姿であり、それで良いのかもしれない。

青年団、今はゼロ

 戦前から区会=文協=と共に、移住地の社会活動の一翼を担っていた青年団は全て消えてしまっている。
 戦前は、各区に青年団があり、トゥレス・バーラス青年聯盟を構成、スポーツ、文化、調査・研究その他の分野で、活発に動いていた。戦中は休止、戦後、復活した。当初は戦勝・敗戦両派に分裂したが、数年後、旧に復し、一時は戦前以上の活気を回復した。
 しかし、次第に力を弱め、次々と活動を停止して行った。青年層に占める戦後派二世の比率が高くなり、日本式の青年運動には馴染まなくなったこともある。上の学校への進学が多くなり土地を離れたこともある。日本への出稼ぎが増えたこともある。要するに、青年運動を担う人間が居なくなったのである。これも時の流れで、アサイに限らず、何処でも起きたことである。

執着し続けた日本語教育も…

 移住地開設以来、住民が仕事以外で最も力を入れたのが、子供の日本語教育であった。従ってブラジル生まれでも、高齢の人の中には、会話はポルトガル語より日本語の方が楽だという人が、今でも、かなりいる。
 戦前から戦中、戦後のある時期までの、日本語教育への執着度は、今日から見ると驚嘆するほどである。戦前は、各区で小学校を作って教えた。それが禁止された後も、なんとか続けようとした。密かに子供たちをアチコチ目立たぬ処に集め、先生がそこを巡回して隠れ授業をした。既述した様に、戦中も続け、警察に拘引され酷い目に遭った先生もいる。