ホーム | 特集 | 新年特集号 | 2016年新年号 | 花城清賢=沖縄戦体験した帰伯二世=食糧や薬なし、マラリア蔓延=戦闘機が小学校を機銃掃射
「頭の上の木に機関銃の弾が当たった」と語る花城清賢さん
「頭の上の木に機関銃の弾が当たった」と語る花城清賢さん

花城清賢=沖縄戦体験した帰伯二世=食糧や薬なし、マラリア蔓延=戦闘機が小学校を機銃掃射

 昨年2015年は終戦70周年、原爆投下70年だが、沖縄県人にとっては大戦中唯一の国内地上戦が行われた「沖縄戦70年」の節目でもあった。ブラジル生まれの二世の幾人かは当時、日本語勉強のために母県に送られ、当地にいたら体験しなかったような強烈な戦争体験をした。その一人、花城清賢ジョルジさん(84、イタリリー生まれ)に大戦中の話を聞いた。

日本軍や住民からトンボと呼ばれた米軍機。見つかると、必ず砲弾に見舞われると恐れられた(沖縄戦米軍記録写真0017)

日本軍や住民からトンボと呼ばれた米軍機。見つかると、必ず砲弾に見舞われると恐れられた(沖縄戦米軍記録写真0017)

 「バリバリバリッ―――って、30機ぐらいの戦闘機が機銃掃射してくるんですよ、僕らのいた小学校に向かって。頭の上の木にその機関銃の弾が当たって怖かったですね」。まるで昨日のことのように清賢さんは思い出す。
 「小学校に兵営があると思ったんですかね」と首をかしげる。信じられないような酷い現実だ。
 「大和魂を叩き込み、しっかりした日本語を覚えてこい――父からそう云われて1940年に沖縄に行きました」。父花城清安は慶応大学出身で、聖南イタリリーでバナナ園を経営するかたわら、日本語教師も務めた。バナナ生産組合理事長、汎ジュキア運動連盟理事長、日語普及会評議員、沖縄県人会長などを歴任した。
 清安の慶応つながりから、清賢さんの妹アリッセさんは多羅間俊彦〃殿下〃(故人)に嫁いだ。
 両親と共に5人兄弟は訪日し、幼少の一人だけを両親が連れてブラジルに帰り、残りの4人は名護の祖父母の元に預けられた。1931年4月生まれの清賢さんは、当時まだ9歳。
 「その頃、学校では内地の先生ばかり。沖縄語を使っちゃいけないって言われ、使ったら方言札を首から掛けられた。1カ月間ぐらい掛けられましたよ。親父がまだいたので、学校にいって先生に『この子はブラジルの二世だから、日本語全然知らない』と説明したりした。僕らは、どれが沖縄語でどれが日本語か―すら良く分からなかったんですよ。あの頃」。
 方言を使ったら罰されるという教育は、沖縄では徹底された。戦後に米国に占領され、日本復帰運動がおこり、沖縄語を自主制限したせいもあって、沖縄では急速にウチナーグチ人口が減り、今では「ブラジルの日系社会の方が残っている」と言われるまでになってしまった。

ハワイ二世と出会い、米軍の支援で帰伯へ

那覇の北2マイル、丘陵の攻防戦では米海兵隊が実に48時間もクギづけにされた(沖縄戦米軍記録写真0051)

那覇の北2マイル、丘陵の攻防戦では米海兵隊が実に48時間もクギづけにされた(沖縄戦米軍記録写真0051)

 戦争中に祖父は亡くなったが、兄弟は皆生き残った。終戦直後、小学校は米軍の兵営として使われるようになり、地元少年のボーイの求人があると聞き、14歳だった清賢さんは応募して働いた。
 「炊事とか掃除とかやったんだが、兵営の中でアイスクリームとか物が豊富なのに驚いた。こんな裕福な国と戦争していたのかと。米軍は冷凍した肉を持っているのに、日本兵はおにぎりだけ。なるほど負ける訳だと納得したよ」と子供心に思ったという。
 そこに偶然、ハワイの日系二世の兵士がいて友達になった。「お前はブラジル生まれか!」と驚かれ、「ブラジルの親父に手紙を送りたいんだが、手伝ってくれんか」と頼むとすぐに助けてくれ、わずか2週間で連絡が取れた。終戦直後としては、画期的なスピードだった。
 父はブラジルからララ物資として砂糖500グラム、着物、薬などを小包で送った。「着るものもない時代、とっても助かったよ。親戚からお金集めてチケット代も送ってくれて、ハワイ二世に相談して飛行機に乗れることになった」。
 1949年、国交回復前に4人兄弟はブラジル行きの飛行機に乗ることになったが、問題はパスポートだった。訪日時に子供だった清賢さんに自分のパスポートはない。

ポルトガル旅券持ち米軍機で羽田まで

 日本と外交があったポルトガル在東京総領事館にお願いして、特別にポルトガルの旅券を発券してもらい、それを使うことに。「日本とは連絡できないから、米軍でぜんぶ手続して東京の総領事館に連絡してもらった」

4月2日、上陸翌日の2日に米海兵隊の捕虜になった老人4人(沖縄戦米軍記録写真0297)

4月2日、上陸翌日の2日に米海兵隊の捕虜になった老人4人(沖縄戦米軍記録写真0297)

 なんと羽田空港まで米軍機に便乗させてもらい、ウェーク島を経てハワイ本島で4日間ほど次の便をまった。「最初の晩は空港に寝たら、次の日にホノルルの親戚が迎えにきてくれて嬉しかった」。沖縄系の多いハワイならではの逸話だ。その後、ロサンゼルスで10日間ほど便を待ち、マナウス、リオを経由してようやくサンパウロへと到着した。
 「今思うとね、アメリカが勝ったから我々は生き残れたんじゃないかと思う。だって日本が戦争を続けていたら、どうなっていたことか。みんな栄養失調でマラリアに罹って、死にそうになっていたのに薬がない状態だった。米軍はすぐに薬を持って来てくれたから、生き延びれたと思う」としみじみと辛い戦中を思い出した。