ブランドン判事
もう一人が、こう追加した。
「昔、クリチーバに行った時、サンジェロニモの町の名を出したら『アア、人殺しとライ病の町……』と言われた。
1970年代までは、事件が多かった。判事も検事も警官も、ピストレイロを恐れて仕事をしなかった。が、1980年代の初め、ブランドンという気骨ある判事が着任、ピシピシやり始めた。優秀な検事や警察官を何処かから引っ張ってきて(サンジェロニモに転勤させて)、溜まっていた事件の書類をドンドン、自分の処に回させ、法廷を開き、判決を下した。
判事は警察に影響力がある。判決以外にも、バンジードの恨みを買うようなことを、警察にやらせた。拳銃を持っていると逮捕させた。ためにバンジードたちから狙われ、危険な目に遭ったことがあり、いつも自分の車の中に軽機関銃を置いていた。
ブランドン以降、事件は起こらなくなった。ブランドンは、その後、大層、出世をした。今は、ロンドリーナで弁護士をしている」
話している内に、なんとなく興味が沸き、本稿の取材に協力してくれている人たちと一緒に、サンジェロニモを訪れてみた。
アサイから40キロ余にあるその町は、正称はサンジェロニモ・ダ・セーラという。人口1万2、000ほどの、小さなムニシピオである。中心部の街に入った瞬間、かなり古い建物が多いと気づいた。後日、北パラナでは、ジャタイジーニョと並ぶ長い歴史を持つ町である、と知った。
住民に訊くと、日系人は1、2家族しかいないという。
我々は、まずバンギバンギの話を拾い集めた。墓を掘ると銃弾がゴロゴロ出る、という件については「埋葬された遺体の半分が、銃で殺されたモノと聞いたことがある」と言う人もいた。が、バカらしいという表情で首を振る人も。我々も、面白半分に作った小話であることは、初めから判っていた。
「銀行から借金の清算を、しつこく要求されるので、借用証書を焼いてしまおうと、その建物を爆破した事件があった」という話も聞いた。が、別の住民は「爆破ではなく放火。犯人は逮捕されず、真相は不明。放火したのには理由があった筈であり、そういうこと(借用証書の件)ではないか、と噂が立っただけ」と否定した。
こういう具合に、奇談というものは、足で歩いて調べると、真相には近づいて行くが、内容はドンドン縮小、面白くなくなる。以下は、我々が耳にした断片的な話である。
「1920年代、あるピストレイロが殺しを頼まれた。その男は、マット・グロッソまで行って殺し、相手の耳を削いで依頼主の処へ届けた」
「1956年、市長が殺された。選挙に勝った後、負けた方をからかった。その場で相手から、6発撃ち込まれた」
「ある有力なファミリアが夜遅くまで大騒ぎしていた。警官が、うるさいと注意に行くと、殺してしまった」
「イズラエル・マルチンスというピストレイロがいた。大分、殺した」
「1970年代までは皆、腰に拳銃をぶら下げたり、バンドに挟んだりしていた」
「1990年代までは、サン・ジェロニモの住民の小切手は、他所の土地の人間は受け取らなかった。セン・フンドになって、取りに行くと、殺されるという噂があったからだ」
虚実入り混じった伝説であろう。