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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(78)

 政府は、一方で(山科と連携して)財界人に、ブラジルでの大型農場や植民地の建設を要請した。この点も筆者の「読み」である。が、1926年以降、野村徳七、今井五介、岩崎久彌、川西清兵衛、武藤山治、後宮信太郎ら錚々たる財界人が動き出している。
 さらに政府の予算で、海外移住組合連合会をつくり、移住地の建設に乗り出した。
 これにより、日ブラジル交史上に劇的なうねりが発生する。これは山科禮蔵の奔走による処が大きかった――と見てよかろう。

頓挫

 コンゴニャス河畔の1万アルケーレスの土地代は60万円であった。無論、山科のシンジケートが支払った。昭和初期の60万円というと、大変な額である。
 シンジケートは1927年、名称・組織を南米土地㈱と改め、東京丸の内に本社を設けた。社長には山科が就任した。現地の1万アルケーレスの管理は、海外興業㈱のブラジル支店(在サンパウロ市)に委託した。この通称「海興」は、10年前、日本の移民業者が合併して新発足した移植民会社である。南米土地の株主にもなっていた。
 (海興ブラジル支店が業務代行する)南米土地は、まず1万アルケーレスの一部1千アルケーレスを、サンパウロ―パラナ鉄道会社に提供した(実際は同社の株と交換したのであるが、その頃の経営状態は極端に悪く、株の価値は殆どなかった)。
 提供の狙いは、鉄道を自社の土地を貫通して、敷設させることにあった。無論、駅の設置も含む。これは後に実現した。鉄道を通すことは、山科が決めた植民地建設の絶対条件であった。
 やはり1927年、南米土地は、現地の測量を開始した。が、業務は停滞しがちとなった。東京で山科が体調を崩したためである。彼は3回目の訪伯をしようとしていた。
 1930年、測量後の9千アルケーレスはピリアニット植民地と命名された。ところが、同年、山科が故人となってしまった。当人は、さぞ無念であったろう。計画も頓挫した。
 その頃、サンパウロ―パラナ鉄道は、セント・ビンチ・シンコから此処ピリアニットを通ってジャタイまで延びていた。ピリアニットには、小さな駅舎が建てられていたが、人影はなかった。周辺は雑草が風で揺れているだけで、静まり返っていた。

渡部の万さん

 1936年、この章の冒頭で記した様に、漸く植民地の建設が始まった。支配人には、海興のアニューマス農場(サンパウロ州)に勤務していた渡部万次郎が選ばれ、現地入りした。
 渡部は1906(明39)年、山形県に生まれ、慶応の予科を中退、海興に入り、1927年渡伯、9年目を迎えていた。以後、その生涯をこの地に捧げ、住民から「万さん、万さん」と親しまれることになる。
 ピリアニット植民地に着任した渡部が、直ちにしたことは、トゥレス・バーラスに居た西村市助を招き、山伐りを依頼することであった。これに応えて、西村が人夫を率いて現地入りし、最初の斧を入れたのが、5月5日である。以後、同月同日が創立記念日となった。
 西村はトゥレス・バーラスとピリアニットと二度、大型の移住地=植民地=の創立記念日を、その腕で歴史に刻んだ。生涯心に残るものがあったであろう。
 彼は、このウライーに永住、本業の傍ら、北パラナの邦人のスポーツ活動を後援、若い人々から慕われた。