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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(80)

北パラナの地図

北パラナの地図

 終戦直後の1946年12月、サンパウロから藤平正義という男がやってきて、残り少なくなっていたラミーの事業化を企て、精製工場をつくった。
 藤平のことは拙著『百年の水流』改訂版で触れた。終戦直後の勝ち組・負け組抗争で、認識派=負け組=の実働部隊の中心となり、DOPSを動かして勝ち組を弾圧した。その抗争中、認識派の代表者として担いでいた宮腰から、ラミーの話を聞いたのであろう。
 精製工場の建設・運営資金を、どうやって調達したのか――については資料を欠く。
 同じ年、南米土地の管理人としてアベリーノ・リベイロという男が当局から派遣されてきた。
 1949年、そのアベリーノが渡部万次郎を解任した。会社を食い物にするのに邪魔だったのである。こうなると、喧嘩屋の藤平の出番だった。翌年、藤平はアベリーノが会社の土地を不正売却したのを見破り、告発、追放した。渡部は復職した。
 1952年、南米土地は凍結を解除された。2年後、同社は植民地の経営を終了、後事は藤平に託した。
 藤平はラミーを日本向け出荷した。しかし数年で工場を市村之に売って、サンパウロへ去った。自分が日本から誘致した豊和工業(織機メーカー)の仕事に専念するためであった。以後、彼は邦人社会屈指の事業家として名を上げて行く。 

市村之

 市村之は1918(大7)年、新潟県に生まれ、2才の時、親に背負われてブラジルにきた。一家はモジアナ線に配耕され、以後、各地を転々とした。1938年、ピリアニットに入植した時、之は20歳になっていた。
 数年後、東京麻糸の勧めで、ラミーを植えた。彼の場合は、戦時中も放棄しなかった。日本向け輸出が駄目なら別に市場をつくればよい、と粘ったのである。これが戦後の市況回復で生きた。
 その回復期の1950年代、市村はラミーを4500ヘクタール植え、世間を仰天させた。世界一のラミー王と持て囃された。さらに精製工場を買収したり新設したりして事業を拡張した。日本の帝国繊維を誘致、合弁で高級品の生産を始めた。
 ラミーは1970年代まで盛んで、ウライーは世界最大の生産地となった。しかし、その後、市況の低迷や霜害で衰微した。市村は精製工場を閉鎖、帝国繊維は撤収した。
 ラミーに関しては、日本から東洋繊維も独自に進出、ロンドリーナの近くで操業していたが、これも引き上げた。
 市村はラミーだけでなく、入植時から――誰もがそうであった様に――カフェーも主作物としていた。企業ではなく個人の生産者としては、ブラジル一と言われた年もある。牧畜、大豆・小麦作を大きく営んでいた時期もあった。パラグアイに大農場を所有したことも……。
 ただし彼の事業内容と規模は、次々と変化しており、その流れの深い部分が捉えにくい。
 話は一寸それるが、ウライーで組合勤務を長くしてきた渡辺稔さんによると、ここの日系の住民は240家族(2014年現在)で、内、半数が農業に従事しているという。全体数は最も多かった頃に比較、殆ど変わっていない。それと半数が農業というと、他地域より比率は高い。主作物は大豆、ミーリョ、小麦である。
 かつて山科禮蔵が発案した「日本移民を独立農にさせる」という構想は――数は目論見が狂ったが――遥か以前に一応、実現していた。
 その中で、市村は、ともかく桁外れのスケールであった。風貌も英雄児そのものであり――非日系を含めて――北パラナの巨星の観があった。