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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(86)

 氏原は、生まれつき天真爛漫で、かつ生涯そうであった。1962年、吉田茂元首相がブラジルを訪れたことがある。サンパウロの飛行場で、タラップを降りてくる元首相に、下に居った出迎え人の中から、氏原が第一声を放った。
 「吉田さん、よう来なさった。疲れなさったじゃろう」
 皆、唖然とした。2年前に帰国の折、同郷人ということで、吉田と何処かで会い、懇意になっていたらしい(右の第一声、資料類には、こう記されているが、氏原持ち前の丸出しの土佐弁では「疲れましつろう」の筈らしい)。
 彼は南国土佐人らしく、明るく楽天的、磊落で、誰にも好かれ、かつ誰でも好きになれる性格だった。もう一つ面白い個性を持っていた。無類の宣伝好きだったのである。ある時、日本の知人への手紙の中で、自分の若き日のことを、こう書いている。
 「…あの頃は村の娘連中に大もてでありました。ことに私が青年会長であった時、演説がうまかったことが、なおさら娘連中の私への関心を高めたようです…(略)…もちろん、当国にきてからも娘連中や婦人連中に大もてですが、女の問題を起したことはありません。というのは私が女にほれるのではなく、女が私にほれるのですから、私には全く罪がないのです」
 この氏原彦馬は、1882(明15)年、高知県の吾川郡吾北村(あがわぐん ごほくそん)の上八川という在所に生まれた。少年時代から海外に出て一旗上げようと志していたが、農家の一人息子だったため、親が許さなかった。
 腰を落ち着けて百姓をしようと嫁も貰ったが、諦め切れなかった。結局、当人の言葉を借りれば、次の様ないきさつがあって後、夫婦してブラジル行きの旅順丸に乗った。
 「明治というのは、青年の腰が落ち着かぬ時代でした。若い男は皆、何かやってやろうという鬱勃とした野心を持っていました。そこへ竹村殖民商館の移民募集です。とびつきましたよ。…(略)…親も反対、親戚も反対でした。私は一人息子です。親の老後を誰がみるのか、と親戚中からつめよられた時ほど、返事に困ったことはありませんでした。親を捨てて行く以上、正義の道を踏んで郷党に恥をさらさず、必ず成功しなければならないと心に誓いました」
 1910年のことで、すでに28歳だった。着伯後は、ファゼンダ・グアタパラでの労務者生活から始め、サンパウロに出て家庭奉公人(下男)をしたりした。仲買商を営んだこともあるが、これは失敗した。
 その後、土地売りに転じた。1922年、40歳の時、北パラナを視察、翌年、再視察、インガー(現アンジラー)の土地365アルケーレスの分譲を地主から請け負った。が、これも大損をした。
 しかし北パラナのテーラ・ロッシァに惚れこみ、以後、憑かれた様に、その宣伝をし、邦人に入植を勧誘して歩いた。
 1926年、赤松?之総領事が山科禮蔵に依頼されて土地を買った(前章で既述)時は、実は氏原がコンゴニャス河畔の1万アルケーレスを仲介した。1928年、海外移住組合連合会が1万2500アルケーレスの土地を買った(前々章で既述)時も、氏原が仲介した。
 この2件で、氏原は土地売りとして名を上げた。以後「同胞のために理想的な入植地を建設する」と決意、機会を待った。翌1929年、それが来た。北パラナ土地会社の招きである。総支配人のアーサー・トーマスから声をかけられ、同社の日本人部の代理人となった。日本人部といっても、販売人は彼だけだった。それでも無邪気に総代理人と名乗った。