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チエテ移住地の思い出=藤田 朝壽=(10)

 祖母も起き出しておくどさんに火を燃やしている。ゴーゴーとコーヒー豆を挽く音がする。やがて祖母は大きなカネッカにコーヒーを注いで持ってきてくれる。
 七月の朝寒に飲む熱いコーヒーは香りも高く何ともいえぬ旨さだ。
 馬を曳き出して鞍を置き荷物をとり付けていると、蹄の音が聞こえてきた。
 私はオーバーを着、祖母に「行ってきます」と声をかけ手綱を左手に取り、鐙に片足をかけ一気に飛び乗り馬上の人となった。
「気をつけてなー」と祖母は門に出て見送ってくれる。
 全員揃った。「お早う」「お早う」の挨拶も、いつもと違って皆元気がある。
「忘れ物はないな?」「ない」五時半。時間励行。「一列縦隊出発!」最年長者である千代吉さんの号令だ。
 「敵中横断三百里」の建川中将のような気持で千代吉さんを先頭に朝寒の道をマルシャで行く。今日の行程は片道二十八キロである。

 昭和十九年頃のチエテ移住地は邦人に對する官憲の圧迫、取調べもなく、一行六人は安心してペレイラ市へ行く事が出来た。
 ペレイラ市の隣接区ウニオンに着いたのは十時前であった。ウニオン区の高台の道から街の家並が赤く見える。
 此所から鈴蘭商店は一キロ位の距離である。
 緩い下り坂を行くと街の入り口に小川がある。馬を乗り入れてそれぞれ水飼い、市内の馬置き場に行き杭にしっかりと馬をつなぐ。
「千代吉さん、役割を決めた方がいい」と品次君が提案する。
「ウン、そうしよう。狭い部屋に六人も押しかけることはない。大内君と鈴江君は馬の係りになってくれ。十一時過ぎには馬に餌を与えてから「ビックリ食堂」の前で待っていること。本選びの方は書物に明るい君達三人に頼む。俺は三人が選んだ本の書名と定価を記入することにする」
「ヨシ、これで決まった。さあ行こう」と大内君と鈴江君を後に、四人は鈴蘭商店へ向かった。
 鈴蘭の奥さんは、目ざとく私を見つけて「藤田さん、早かったのねえ。でも貴方たちは二番乗りよ。一番乗りはウニオン区の青年たちでした」と言われる。
 ウニオン区は市の隣接地だから早いのは当然だが、私たちは移住地の一番奥のアレグレ区から片道二十八キロを来て二番乗りが出来たことは、奥さんのご好意のたまものです、と厚く礼を述べる。
「アノネー、皆さん、本は奥の部屋に置いて有ります。お隣が外人さんだから大きな声を出さないように、低い声で話して下さい。それから帰るのは店が閉まって大通りに人影がなくなってからにして下さい」と言われる。
「ハイ、分かりました。そうします」と言って奥さんに従いて奥の部屋へ行く。
 高窓から差しこむ陽の光で明るい。
 部屋に一歩足を踏み入れて見ておどろいた。本だ。おびただしい書籍の山だ。
 私はブラジルに来て、これだけ沢山の本を見るのは初めてだ。
 チエテ青年連盟所有の図書も可なり有るが、迚もとても比べ物にならない。
 全部新本である。思わず喜びの声が出そうになるのをやっと堪えて後ろの三人を見て目と目でうなづき合って喜びの表情を示す。
「では、貴方たちゆっくり見て下さい。選んだ本はこの大きなボール箱に入れて置いて下さい。今日は他には誰も来ないから安心して沢山買って行って下さい」と言って奥さんは店に行かれた。
 サアーこれから本選びだ。こんなにも沢山有ると目移りして選ぶのも困難だ。
 落ち着かねば、と私は心に言ひ聞かせてから選び始める。