土地代の支払いは3年賦だったが、入植者の都合によっては、5年賦とするようトーマスに交渉、承諾させた。3年間滞納すると土地は没収ということになっていたが、没収された者はいなかった。氏原の力だった。
さらに入植者の世話を後々までみた。その世話をする便宜上、1936年、各植民地の邦人代表を集めて「北パラナ国際植民地連合日本人会」なるものをつくって会長を務めた。名称は仰々しいが、要するに自分が入植させた人々の連絡組織であった。
戦時中は、トラブル防止のため、ブラジル官民始め連合国系の人々との接触を続けた。
ともあれ、氏原は金儲けが目的で土地売りをしたのではなかった。この地に日本人を導入することに強烈な使命感を抱いて、そうしたのである。だから自分の仕事を「土地売り」ではなく「植民事業」と称していた。
氏原彦馬は、本稿の序で記した「青空高く浮かぶ白い雲に誘われる様に」植民事業を追い続けた。
収入は殆どその費用に使ってしまった。ために日本を出てから50年も経つのに、一度も帰国したことはなかった。
そこで、昔、彼に世話になった入植者たちが、費用を出し合って訪日させた。さらに、彼の功を評価する人々が動いて、名誉市民権や名誉州民権となった――と、そういう次第であった。
ちなみに、訪日の折、氏原は「こんな嬉しいことはない。貧乏しても、正直に世を渡る者が、最も大きな幸福に浸れる」と喜んだ。
引退後の氏原には、宣伝の必要は、もうなかったが、止まらなかった。
自分の業績を宣伝し続けた。引退の年のことと思われるが、郷里の知人に、こう書き送っている。
「不肖私事、二十五年間、移植民事業に当たり、正義の道を踏み、かつまた私欲を捨てて専ら植民者のために奮闘努力、以って世界唯一、ブラジルに二つとなき植民地の建設を遂行しました。インチキ土地売りは多数いますが、正義の道を踏んで大活躍した者は氏原一人です。これすなわち土佐の海南男児というべきでありましょう。どうか大いにご安心ください」
「……氏原のごとき人柄と信用を有するものは日本人の中にもブラジル人の中にも二人とはいない、と言われております……」
斯様に、照れる様子は全くなかった。
前記の訪日の折、両親の墓前に詣でて、延々と小半日、涙を流しながら何かを語り続けていた。傍に居た人が、墓参が遅れたことを詫びているのだろう……と思って耳を傾けると、内容は自分のブラジルに於ける植民事業の宣伝だった。
州民権を貰った時は、氏原は、親戚、旧友、郷党たちに、
「一九六三年九月三日は、愚老の生涯最良の日でありましたことを報告申し上げます。と申しますのは愚老の過去三十五年間にわたる北パラナ開発に際しての一意専心、正義の道一筋に進んで来ました微力が認められ、北パラナ開発の功労者として名誉州民権を授与された日であります」
という文面の手紙に、授与式の日の写真を添えて送った。
翌1964年、高知県人会が『南国土佐を後にして』という記念誌を出版した。氏原は会長を務めており「発刊のことば」を寄せている。その中で、日本人の海外進出のイニシアチーブをとったのは土佐人であると、その代表的人物の名を数人上げ、続けて「私自身も北パラナに日本人を導入する事業を天職として、微力を捧げてきました」と同列に並べてしまっている。
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