続けてブラジルの各界への日系人進出の第一号は皆、土佐の二世であると、その名前を列挙、自分の長男の名を医学界に於けるそれとして、臆面もなく記している。
この時82歳であった。以後も達者に自画自賛を続けた。ここまで徹底すると、誰もが面白がった。
しかしながら、実は、氏原彦馬が引退後、カフェー業界は生産過剰による不況期に入った。詳細は後ほど触れるが、際限もなく入植者を導入、カフェーを植えさせた北パラナ土地=開発=会社や氏原にも、責任無しとはいえない。それを氏原がどう思っていたかについては、資料を欠く。
1975年の大凍害とカフェー産業の壊滅は、幸い見ることはなかった。その3年前、90歳という天寿を全うして他界していたからである。チャッカリ逝ったという感じである。
大ファゼンデイロ、柞磨宗一
チバジー河以西の開発史には、もう一人異色の日本人が登場する。姓は柞磨、名は宗一。柞磨はタルマと読む。同時期、サンパウロ州リンスに多羅間(タラマ)鉄輔という人がいて、よく混同されたが、全く関係なかった。
この柞磨宗一、どういう人間かというと、いわゆる大ファゼンデイロであった。氏原彦馬が引退した頃から、邦人社会に顔を出すようになった。それ以前は、自身の事業に忙しく、その暇もなかった。
銀髪、赭顔、太く高い鼻……という日本人離れした容貌で、低い声で話し、青二才やカマラーダにまで敬語を使ったという。
1895(明28)年、広島県に生まれた。1917年、渡伯。モジアナ線のファゼンダに配耕された。契約終了後、アルゼンチンへ行こうとした。日当が良いと聞いたからである。この時点では一介の労務者に過ぎなかった。
その旅の途中、オウリーニョスで、元のパトロンとパッタリ出会った。このパトロンの名はダヴィスといった。ダヴィスから不心得を諭され、近くのファゼンダへ入って働いた。
1924年、オウリーニョスで農産物の仲買を始め、いくらか稼いだ。2年後、同じソロカバナ線を北西へ百数十キロ、ジョン・ラマーリョという小さなムニシピオで70アルケーレスの土地を買い営農した。が、旱魃で無一物となった。
町に出て床屋を始めた。が、実はハサミは、たいして使えなかった。職人を雇ったり無料サービスをしたりして客をつかんだ。小銭を稼いで、バールを開いた。
ジョン・ラマーリョは水の無い町で、皆、雨水を溜めて使っていた。柞磨は井戸掘りを決意、50日かけて60メートル掘った。が、岩に突き当たった。住民のブラジル人たちは「タルマ、無い水は出ない。諦めた方がよい」と嗤った。が、その岩の下に水がある様な気がして、さらに30日間、岩を叩き続けた。嗤っていた連中も、いつの間にか井戸の傍を通る時は、十字を切って行くようになった。
やがて岩が砕け、水が滾々と湧き出した。さア大変、町中の人間が集ってきて、大騒ぎになった。皆、水を汲みにきた。柞磨は一躍、救世主となった。
これを見たあるポルトガル人が、機械を使って井戸を掘った。が、資金が続かず止めてしまった。それを引き継いで130メートルまで掘ると、水脈に当たった。この井戸は市役所に寄贈した。それで人気が出、バールも大繁盛した。
1927年、農産物の仲買と小さな精米所を始めた。32歳。折から、この地域が発展期に入り、商売は繁盛、ひと財産つくった。