筆者は「一章 カンバラー」以降、アルマゼン、特に仲買で財を成した人々のことに繰返し触れてきたが、柞磨宗一も、その道を歩み始めていた。カフェー精選工場、精綿工場も開業した。これは仲買を本格化したことを意味する。200アルケーレスのカフェザールも持った。
1933年、その頃、新開地として噂になっていたロンドリーナへ、穀物の買付けに出かけた。ジョン・ラマーリョから南に直線で100キロほどの距離だった。
ロンドリーナは最初の入植が1931年だから、その2年後であり、農産物の生産も初期の段階であった。無論、銀行の支店などは一つも無かった。柞磨は入植者に融資をした。生産物を青田買いしたのである。
1937年、前出のダヴィスがロンドリーナの市長になっており「こちらへ出て来い」というので、本拠を移した。
この人物は、ウイリイ・ダ・フォンセッカ・ブラボゾン・ダヴィスといい、ロンドリーナ市建設の功労者とされている。
ロンドリーナは、3年前にムニシピオになっていた。経済的には興隆中だったが、不足なモノが多かった。例えば未だ電化は着手されたばかりで、夜は真っ暗だった。従って、カフェー、棉、米が生産されていたのに、電力不足で精選(カフェー)、精綿、精米の工場がなかった。柞磨は、それをつくり自家発電で操業した。これで、収穫物を独占的に仕入れた。アンダーソン・クレイトンですら、進出してきたのは、2年後だった。
ロンドリーナは急成長していた。柞磨の事業も勢いよく伸びた。ところが、その絶頂期に日本が開戦、事業は、敵性国企業のリストに入れられてしまった。ためにガソリンの配給を受けられず、操業はストップした。
市長、警察署長ら有力者が「タルマだけは……」と運動してくれ、再開できたが、その間かなりの痛手を負った。さらにカフェーの取引で失敗、巨額の損をした。「柞磨さんも、もう駄目だろう」と噂が流れた。当人も(イケナイ)と思っていた。それでも諦めず、捲土重来を期しカフェーを植えた。やがて戦後の大好況が到来、大きく事業を伸ばし、伸ばし続けた。
柞磨の事業内容については、1955年に出版された一資料には、3ファゼンダ(計1450アルケール)で111万本のカフェーを栽培、一千頭の牛を飼育、製材所を操業、カフェー精選・精綿工場を賃貸、イタケーラに創立された製紙会社の社長にも就任……とある。
その後、さらに拡大、最盛期には19のファゼンダを所有、ロンドリーナ市内に100近い不動産を所有していたという。
ロンドリーナの北、パラナパネマ河の近くにフローレストポリスというムニシピオができた時には、土地、マッタドーロ、フットボール競技場、セミテリオ、公園を贈った。
以下、話は邦人社会との関わりになるが。――1955年、地元ロンドリーナの文協アセルの創立に協力、初代会長を務め、会館建設用の広い土地を寄付した(初代会長については、別人の名を上げている資料もある)。
1968年、ロンドリーナにアリアンサ(パラナ日伯文化連合会)の設立の折、資金援助をし、会長になった。71年まで務め、パラナ州全域の文協の連携に取り組んだ。州都はクリチーバであったが、日系社会の中心地はロンドリーナとなった。
ただ惜しいことに、1971年、故人となっている。76歳だった。
ところで、筆者は今回、何度かロンドリーナに取材に通う内、この柞磨宗一の後継者に会おうとした。彼の事業のその後を知りたかったのである。チバジー河以西の個人の事業としては、非日系も含めて、最大級だった規模である。簡単に判るだろうと思っていた。
ところが、誰に訊いても返事は漠としていた。「タルマ」という姓は皆記憶しているのだが、それ以上は知らない様子である。これには驚いた。
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