最近ニッケイ新聞社が編集して創刊された『日本文化』誌に掲載されている諸論文を読んで、ブラジルに生きている私たち日系人にとって、「日本文化」、あるいは「日本(人)の心」とは一体如何なるものなのか、その創造はどのようになされるべきか、について、改めて考えさせられています。
ブラジル日本移民100周年以降、文協はじめ各都道府県県人会や全伯各地の日本人開拓地の歴史、さらには諸個人の自分史など様々な分野の総括的著書が次々と発行され続けています。これらの出版物は当然ながら「日本の文化」や「日本(人)の心」について触れて書いています。光り輝く視点から含蓄ある問題提起をした優れたものが数多くあります。しかし多くの場合、それぞれの個別的分野から多種多様に論じられ、その内容展開において一面的なものであったり、あるいは結論的なものになり終わったりしているように思います。日本移民あるいは日系社会にとって切実なこの問題の探究は、今なお体系的に核心に迫り得ず、総じて星雲状態の中にあるのではないでしょうか。浅学未熟ながらそのように思います。このような時に本誌が発刊された意義は大きく、日本文化とその心の諸問題に真正面から取り組み、思想的に・根源的に問いかけようとする編集者の心意気に感動します。
さて、私は、本書所収の岸本昴一「死屍累々として幽鬼も咽ぶ」を読んで、こみあげる感動と痛切な思いを禁じ得ませんでした。岸本は、今から55年以上も前の1960年に人々に忘れられ埋もれてきた日本移民草創期の「開拓古戦場・平野植民地」を初めて訪ね、マレイタで80余人の死者を生む悲惨この上ない殖民の歴史と創設者平野運平について、植田勘三郎・重本重吉氏ら生き残りの創設者たちから直接証言を聞き取り、「先駆者の悲壮な闘いに声を呑んで」書き上げたのでした。
奴隷的コロノから独立農をめざし指導者平野運平の先導の下にドラード河畔の沼沢地の開拓に挑んだ日本移民たちの開拓地建設の計画は、マレイタがどんなところに発生するのか、その基礎知識すらなく、当初から無謀そのものでした。次々と斃れ逝く同胞の屍を前に無念を噛みしめながら指導者も人々も茫然と立ち尽くすばかりでした。しかし、それでも重本・植田氏ら生き残った同胞たちは、「僕は戦友の死んでいったこの土地を生かすために最後までやるよ」、と言い残して志半ばで死んだ平野運平の言葉を胸に刻み、死に身になって開拓地を切り開く、退路なき苦難に満ちた前進に尽力したのでした。そして病魔の巣窟であったドラード河畔の地に広大な平野植民地を開拓し、日本移民の希望の大地を建設したのです。
岸本昴一は、グワタパラ耕地の副支配人でありながら己れの栄達や功利を捨て、日本移民の窮状を一身に背負い、彼らと寝食を共にして「独立農の理想」を実現せんとした平野運平、そして病魔に斃れた指導者亡き後も希望を捨てずに難行苦行の果てに開拓地を実現した名もなき無名の英雄たちの苦闘に日本移民の真実の姿を発見したのです。「死屍累々として幽鬼も咽ぶ開拓古戦場」に立って、そこに埋もれた初期移民の生きた開拓精神を掘り起し、歴史の舞台に輝かせました。
私は、このような岸本昴一の歴史発掘の方法に共感しました。困難に喘ぐ日本移民の足跡にわが身を移し入れて、その時代的諸条件と共にそこに生きている人間の内面の真実に迫っていく筆致に強く胸を打たれます。願わくは本『日本文化』誌が今後ともブラジルの地に日本の文化を根づかせ・土着化させるべく尽力した移民群像を掘り起し、そこに生きづく日本(人)の心を私たち読者に提示し、もってブラジルにおける日本文化創造の方法とその方向性を探究する文化誌となることを期待し、私の読後の感想とします。