『サ物語』の三好によれば、日本への西洋サーカスの初上陸は、幕末の文久4(1864)年3~5月に横浜で興行をした米国リズリー・サーカス一座だという。黒船が大砲を振りかざしてむりやり開国させた後、グローバリゼーションの〃先兵〃として訪日したのはサーカス団だった。
このリズリーが横浜の米国領事館をくどいて、日本人初の軽業・曲芸師18人の洋行を実現させたのが1866(慶応2)年だというから、まだ幕末の動乱期だ
1853年にペリー浦賀来航、1867年に坂本龍馬暗殺、1868年9月に明治政府発足という時期だ。1866年に外国奉行が発行した海外渡航免許の1号から18号が江戸の軽業師一座へのものであり、彼らは開国の象徴的な存在だった。
徳川幕府は翌1868年4月25日には「ハワイ第1回移民」(グアム島42人、ハワイ153人)を渡航させた。当時、ポリネシア人による「ハワイ王国」で、同じ島国同士、日本は近い存在だった。白人勢力が強まる中で1900年には米国が合併した。明治政府が発足するのは、ハワイ移民の5カ月後、1868年9月からだ。もう本格的な「開国」は秒読み段階であった。
日本人最初の軽業師洋行団は「帝国日本芸人一座」という重々しい名前で、1866(慶応2)年10月に横浜を出港して年末に米サンフランシスコに入港、翌1月から公演を始めた。史上初の日本人による米国公演は、龍馬が暗殺された年だった。
この米国興行は大成功し、1867年4月15日には時のアンドリュー・ジョンソン大統領に官邸に招かれて、握手までしている。リンカーン大統領が暗殺(1865年)された後、副大統領から昇格した政治家だ。1865年に終わったばかりの南北戦争の戦後処理に尽力する合間に、軽業師の公演で気分転換をしたのだろう。
《此日、国王に招かれて御城内に参り、王様の座敷に御目通りにあって、あつ両(握手)致、あつ両と申はお互に手と手をにぎる、此事あつ両と申して仁義する事なり》(『サ物語』34頁)。
今でも日本の日本人は、ブラジルに来た当初はお辞儀で済まそうとする傾向がある。さすが芸人だけあってすぐに「握手」に適応し、明治維新の前に米国大統領と交わしているのは立派だ。
さらに同一行は、昼興行の合間、首都ワシントンの遊郭に2晩連続で足を延ばした。おそらく日本人による米国首都遊女初体験かもしれない。
事後にさっそく文化の違いを感じ、《床に入った後に始末をする時、日本では紙で拭くが、異国では奇麗な瀬戸物にはいった水で互いに良く洗って絹の布きれで拭く。その絹の手拭いで、あくる朝、顔を洗って拭く。この国の習慣とはいいながら、まっこともってむさくるしい思いで嫌になる》(『サ物語』36頁、現代語に訳)など、果敢に西洋社会に飛び込んでいる。
このような明治男、軽業師の適応力の高さがあればこそ、竹沢万次のようにブラジルでドン・ペドロ二世の体育教師になり、イタリア娘と結婚して子孫にサーカス団を継がせることができたのだろう。(つづく、深沢正雪記者)