『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場=1911~1942年)』(レジナルド・カルバーリョ著、09年、バイア連邦大学)には次のように書かれている。
《「Haytaka Torakichite」は、1854年に大阪で生まれ、12歳でロンドンに向かい、そこで「Frank Olimecha」と名乗るようになった。欧州、米大陸を巡業して回り、1888年にイギリス人道化師フランク・ブラウンと共にブラジルに到着。ブラジルではマヌエル・ペリ、フレデリッコ・カルロ、アフォンソ・スピネリ、ポデスタ、ホルメル、シグリらと共に働いた。1909年にフランキは自らのサーカス団「オリメチャ」を創立し、全伯を巡業した。子どもたちは素晴らしい芸人に育ち、サーカス団を長い間支えた》
前節のルイス論文にあるようにフランキの渡伯が1883年で、前述のようにペリ・サーカスに参加していたのであれば、謎が一つ解ける。
エスタード紙初の日本人軽業師広告、1886年2月28日付で「ペリ・サーカス」(Circo Pery)の「40の手のひら怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)」という演目は、おそらくフランキ・オリメシャが披露したものだろう。
では、この「Haytaka Torakichite」とはいったい何者か――。調べてみたら、とんでもない有名人、大物に突き当たった。なんと〃幕末の軽業二名人〃と呼ばれた有名曲芸師に、「早竹虎吉」(生年未詳―1868年2月8日、京都)がいたのだ。
歴史系総合誌「歴博」第118号によれば、《早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。虎吉の一座は天保ごろより大阪を拠点として活躍をはじめ、安政4(1857)年には江戸に進出、さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、その人気は一世を風靡した。虎吉の得意としたのは〃曲差し〃と呼ばれる芸であった。長い竹竿を肩や足で支えつつ、その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである》
そんなスーパースターがブラジルに移住していたことなど、ありえるのだろうか…。
ウィキぺディア頁があるほどの有名人であり、それによれば、虎吉は1867年8月24日、一座約30人を率いてアメリカに渡航した。ただし、サンフランシスコを振り出しに、サクラメント、ニューヨークなど米国各地で興行し、フィラデルフィアでの公演終了後、突如体調を崩して1868年2月8日に心臓病で客死した。
その後、1874年に実弟が二代目早竹虎吉を襲名し、東京で大評判をとったとの記述があり、二代目もブラジルに移住したとは考えにくい。
つまり、この「Haytaka Torakichite」本人がブラジルに来たという話もまた、「ブラジルの竹沢万次」同様に、どうも〃本家筋〃ではなさそうだ。
カルバーリョ論文では「Torakiche Hayataka」本人がブラジルに来たことになっているが、前節紹介したマルタ論文では「フランキ・オリメシャ」はその〃子供〃になっていた。後者の方がまだ整合性がありそうだ。(つづく、深沢正雪記者)