「戦後移民史上で最悪」と呼ばれたドミニカ移住から60周年――元同移民でサンパウロ州イビウーナに転住した清水英雄さん(75、東京)から話を聞くと、「決して全てが地獄だったわけではない」と証言した。暗い印象ばかりの同地移住の中で、成功をおさめた清水さんに当時の記憶を振り返ってもらった。
清水さんは生後まもなく満州に渡り終戦後に内地に。その後、56年、「条件が良いとはきいていた」との期待を胸に、14歳の時に両親と5人の兄弟と共に「あふりか丸」で海を渡った。
最初のダハボン移住地から遅れること2カ月、入植したコンスタンサ移住地は首都サント・ドミンゴから北西に100キロ程離れた内陸の小さな町。「第一次だから当然日本人はいなかった。先にスペイン人が農業をやっていて、後からはハンガリー人なんかも来ていた。それぞれの民族で村が出来ていたけど差別的なことはなかった」。
続々と日本人新移民が入植。ドミニカ日本人移住50年記念史『青雲の翔』によれば、同地入植数は計220人とあるが、清水さんによれば「暮らしていた人はもっと多かった」と話す。他の移住地から移り住んだ人もいたと推測できる。
農業移民として入植した清水一家は野菜作りに励んだ。コンスタンサは肥沃で、レタスやトマトなどがよく採れたという。しかし当時ドミニカ人は、上流階級は輸入品しか口にせず、一般階級は野菜を食べる習慣すらなかった。
「作っても売り場がない」との状況を打破すべく、英雄さんの父親は意を決して当時高価だった車を購入、各地へ直接売り込みを始めた。「私は長男で、日本で学校も終わっていたので、あちこち走り回った。覚えたてのスペイン語で食べ方を教えていくと段々と忙しくなっていった。やっと家に帰ったら、もう次の荷が積んであったよ」。
しかし、移住者募集広告では「肥沃な土地」を謳っていたものの、作物が取れない場所も。00年から日本政府を相手取り、帰国者を含む計177人が損害賠償を求めた。清水さんも「日本人が移住した地域をいくつか訪れたが、石山でとても農業に向かない土地もあった」と証言する。
清水さんにも忘れられない出来事がある。生活が落ち着くまでの期間、支給されるはずの補助金がわずか数カ月で突然打ち切られた。「野菜が売れずに大変だった時期だから途方にくれた。しかし、それがよかったのかも知れない。逆境があって必死で働きましたから」と振り返る。
しかし、その後さらに状況を一変する事態が起こる。日本海外協会連合会(現・JICA)が同地への移民政策を打ち切った。後に政府は61年同地移民の日本への帰国支援を行い、約1300人の移住者のうち、大半は同地を去った。
「我々は基盤が出来ていたので、ドミニカに残るつもりでいたが、先にブラジルに渡った知り合いから〝ここはいいぞ〟と誘われて来た。父は日本人が多くいる地域に行ったほうが良いと考えたはず」と、62年サンパウロ州イビウーナへ家族で再々々移住し、以来同地で暮らしている。コチア産組の支援もあり兄弟が多く働き手がいたのですぐに軌道に乗った。
妻の恵美子さん(76、熊本)は同船者で、移住地で結婚。「父に〝日本人と結婚できる機会はもうないぞ〟と背中を押されてね」とはぐらかすが、「幸せに暮らしているから、よかったんだろうな」と笑った。
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2000年からのドミニカ移住訴訟により、06年に国の賠償責任は認められたが、除斥期間の経過によって原告の請求は棄却された。しかし、小泉純一郎首相(当時)の首相談話による謝罪とともに、最高200万円の特別一時金の支給が決定、原告は全員控訴を取り下げた。日本からも高い注目が集まったこの裁判からも10年が経とうとしている。おりしもその2年前の04年9月、小泉首相はブラジルを訪れ、ドミニカ同様に戦後造成されたグアタパラ移住地を電撃訪問、今も語り草になっている。ブラジルでの移民に対する好印象が、その後の大岡裁き的な「特別一時金」という稀な政治決着を後押ししたのかも知れない。