ホーム | コラム | 特別寄稿 | カンポス・ド・ジョルドン「陽光桜」秘話=桜に込めた日本人の想い=サンパウロ市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

カンポス・ド・ジョルドン「陽光桜」秘話=桜に込めた日本人の想い=サンパウロ市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

陽光桜

陽光桜

 日本では3月の下旬から桜開花宣言のニュースが春の到来を告げるように巷を賑わす。そして、5月下旬に北海道の満開の桜が散り始める頃、沖縄の若夏が始まるのである。古くから、日本各地で満開となる桜木の姿は人々の心の奥深くに投影し、日本人の精神構造を型作っているとさえ言われている。
 今日、アメリカ合衆国の首都ワシントン・コロンビア特別区の中央、ワシントン記念塔を臨むポトマック河畔を薄紅色の雲が漂うように咲き誇る数千本の桜並木はつとに有名である。毎年開催される全米桜祭りは海外の桜祭りイベントとしては最大規模である。
 その歴史は古く、1885年、ナショナルジオグラフィック協会の女性理事や、1909年、第27代タフト大統領夫人の尽力で始まった。最初の苗は、2千本取り寄せ移植しようとしたが害虫に汚染されていたため焼却処分にされた。
 しかし、その後、1912年に当時の東京市長で衆議院議員の尾崎行雄が再度桜の寄贈計画を実行した。ソメイヨシノをはじめ約59種類、6千本に及ぶ苗であった。以来、この「日米親善」の象徴とされた桜は大戦や様々な歴史の局面を乗り切り、今では、毎年3月最後の土曜日から2週間、約70万人以上の見物客で賑わい、関連イベントなどを含めると、全米第一の日本文化祭となっている。
 『博物研究会・会誌』(1992年12月1日号)でブラジル東京農大会・現会長沖真一氏は、1992年4月に東京・町田市で開催されたサクラ国際シンポジアムに参加した時の報告(『亜熱帯のサクラ栽培』)に、日本の花・桜を通して誰もがその意義を理解し、木を植え育てるということがシンポジウムの基本となっていると述べ、日本の桜は世界六十余ヶ国、十数万本に及び北半球では日本の桜を凌駕するような成功例もあるようだが、それらが十分に育つことの難しさを次のように語っている。
 「樹木の同化は人の同化よりも難しい一面を持っている。それは生物の原産地の性質を持ち続けようとするオリジナリティの由縁でもある」。桜は北半球の温帯と暖帯に分布することから、亜熱帯で栽培に成功するには非常に難しいということである。

「ブラジルのスイス」にある桜

30数年かけて陽光を品種改良して作った生みの親・高岡正明さん(1909~2001年)<http://tamutamu2011.kuronowish.com/yukousakura.htm>より

30数年かけて陽光を品種改良して作った生みの親・高岡正明さん(1909~2001年)<http://tamutamu2011.kuronowish.com/yukousakura.htm>より

 そのような桜栽培の難しさに30年以上の歳月をかけて取り組んだ人物の苗が、今、カンポス・ド・ジョルドンの桜祭りを賑わす桜の一種、「陽光桜」である。その人は、1902年愛媛県川内町(現在の東温市)に生まれ、2001年、92歳で亡くなった高岡正明氏であった。高岡氏が生み出した新品種「陽光」には知られざる秘話があった。
 私は2011年に、31年ぶりのサンパウロでの生活を再開した。久しぶりのブラジルでの生活は、見るもの聞くことが非常に新鮮で、特にブラジルの樹木には魅了された。日常の合間に珍しい花木を捜し、素人目の文章を綴ってきた。
 その一つに、カンポス・ド・ジョルドンという高級リゾート地の樹木がある。そこは、サンパウロの西方約170キロ、車で約2時間半のところにあり、マンチケーラ山脈の標高1700メートルの高原地帯にある閑静な街であるが、「ブラジルのスイス」と呼ばれ、町全体がヨーロッパ風の建物で統一され、サンパウロ州各地の富裕層にとっては、冬は別荘地、夏は避暑地、日系社会には毎年恒例の桜祭りに出かける大勢の観光客で賑う屈指の観光地である。

生誕100年を記念して1998年9月に建立された高岡正明顕彰碑(同サイトより)

生誕100年を記念して1998年9月に建立された高岡正明顕彰碑(同サイトより)

 私はこれまでにこの町を2度訪れたが、その目的は、この高原の稜線から突き出たように林立する、不思議な形をしたパラナ松を見たいと思ったからであった。はじめて目にしたときの興奮は、今も忘れられない。
 後に、この町はパラナ松の森の中にあることが分かった。今世紀中には絶滅するであろうと言われているこの木は、現在伐採が禁じられ、植樹保護されている。町には至る所にこの非常に特徴のある形をした木が立ち上がっている。
 パラナ松は高さ六十メートルにも達する高木で、幹の太さは二メートルに及ぶ。地面から直立した樹幹の頂上部分に傘のような、菊の花が開いたような枝をつける。枝は天に向かって平行にあるいは成長するに従って斜め上方に緩いカーブを描くように広がる。枝の先には環状に細かい針状の葉が丸いバスケットのような形を作る。


パラナ松の地で桜祭り

 パラナ松は、学問的にはナンヨウスギの仲間で、ブラジルではリオ州西部の高地、ミナス州の南部、サンパウロ州の南部といった三州には特に多く、広く分布している。ブラジル南部のパラナ州では首都の名前に因み、パラナマツと呼んで親しまれているというのである。小さなカメラを抱えて絶好の撮影場所を探す間に、街をあちらこちら見ることができた。
 しかし、この地の桜祭りがサンパウロの名物の一つであることを知ったのは、その時がはじめてのことであった。
 カンポス・ド・ジョルドンの街の歴史は、結核治療に最適の環境を備えていることから始まった。1935年、日本人医師が市長から譲り受けた20ヘクタールほどの土地に結核療養所を建設した。戦時中は一時期ブラジル政府に没収されていたが、1959年に日伯援護協会が引き取った。
 近年、結核は治療改善が進み、患者数が大幅に減少することによって、今日では、日系養護老人施設「さくらホーム」として利用されているようである。その敷地内に咲き乱れる桜祭りが毎年盛大に開催されている。日本のように桜の木の下でお花見の宴会が繰り広げられるのではなく、来訪者は桜の木々の間をゆっくりと散策を楽しんでいる。
 サンパウロ州には各地に日系移民が植樹した桜があるが、サンパウロが亜熱帯性気候のため、「ひまらや」「ゆきわり」「おきなわ」といった、沖縄や台湾に咲く品種しか根付かないという。しかし、この町は高原にあるため寒暖の差が激しく、数多い桜の品種の一つ「陽光」が植え付けられた。
 沖氏(前掲)の談話によると、「陽光」という桜の品種は、愛媛県の元教師、高岡正明氏が、戦死した教え子たちを慰霊するために、およそ30年をかけて生み出したもので、この桜は特別大きく、濃い紅色の花をつける。
 パラナ州やカンポス・ド・ジョルドンのような寒冷地でしか開花しない品種であるため、愛媛県人会は日伯援護協会と協力し、この品種を導入した。南米では、桜の寿命が20~30年と短く、各地の桜の園では、次期世代用の桜の苗木が植樹されているという。

知られざる「陽光」品種改良譚

昨年公開された映画『陽光桜』のサイト(http://www.movie-yoko.com/)

昨年公開された映画『陽光桜』のサイト(http://www.movie-yoko.com/)

 「正明氏の教え子を慰霊するため」という言葉の背景は、偶然に繋がったインターネットの映画サイトであった。それは終戦後70年目であった去年、高橋玄脚本・監督『陽光桜-YOKO THE CHERRY BLOSSOM-』で、原作は高橋玄著『陽光桜 非戦の誓いを桜に託した、知られざる偉人の物語』(集英社刊)である。サイトでは次のように紹介している(概略・筆者)
   ※   ※
 愛媛県川内町(現在の東温市)の山間部にある高岡家は、主人・正明と妻・艶子、そして農業高校を卒業して家業の造園や農業をきりまわす長男・正堂の3人家族であった。正堂は三十歳を過ぎ見合い結婚をし、いよいよ家業を盛り立てていく責任を背負っていた。だが、父正明は商売を息子に任せっきりで、ひたすら自分の趣味の桜づくりに没頭する日々を続けていた。
 ある日、たまりかねた正堂は父を問い詰める。「親父! このままじゃウチは破産やけん! なんで、わざわざ山を無駄に使って、カネにもならない桜を作る必要があるんじゃ!」父は静かに戦前の物語を息子に語り始めた。
 1940年当時、軍国教育の下、地元の青年学校農業科教員として勤めていた高岡正明は、「神国日本は絶対に戦争に敗けない。お国のために戦ってこい。そしてまたこの桜の木の下で会おう」と言って、桜咲く校庭から教え子たちを送り出した。
 しかし、日本は惨敗した。正明の生徒たちも各戦地の最前線で若き命を落とした。「わしが子供たちを死なせた」という悔悟と自責の念が正明を苦しめた。その時彼は、「亜熱帯のジャワから極寒のシベリアまで各国で散っていった教え子たちの慰霊のため、どんな気候の地でも花を咲かせる新種の桜を作らねばならない。この悲惨な、忌まわしい戦争を二度と繰り返してはならない。戦死した教え子たちの鎮魂と、世界恒久平和への願いを託して新しい桜を自分の手で作ろう」と桜の新品種開発に一生を捧げる決意をする。
 その桜は「新しい桜」でなければならなかった。その理由は、「厳寒のシベリアで散った子たちもいる。亜熱帯のインドシナ半島で亡くなった子もおる。教え子たちの鎮魂と世界各国への平和のメッセージを託すには、これまでの桜ではいかん。どんな気候でも花を咲かせる、病気にも強く、樹勢が良い品種でなければいかん」。
 桜は植物遺伝学上、人工受粉で新たな品種をつくることは「不可能」と言われ、鎮魂と世界平和の願いを込めた桜の新品種開発の道は苦難の連続だった。
 しかし、正明は諦めなかった。「わしが背負った罪やけん! あの子たちの為に、この桜だけは咲かせないかん!」との、自らの誓いを胸に秘め不屈の精神で試行錯誤を繰り返した。私財を投げ打った約30年間に及ぶ試行錯誤の末に、ついに、暑さにも寒さにも強い(零下30度から摂氏30度の環境でも咲く)品種の「陽光桜」(「陽光」という日本初の桜の種苗登録第一号となる新しい桜)を誕生させたのである。
 戦争に埋もれた過去を初めて知った息子・正堂と妻・恵子は、その後、正明の生涯をかけた桜づくりを手伝うことになる。だがこの物語は、それでおわりではなかった。
 正明は無償で国内外に約5万本に上る陽光桜を届け、死後は家族やNPO法人「日本さくら交流協会」(松山市)が遺志を引き継いだ。今では世界約20の国と地域で約3万本の陽光桜が花を咲かせているという(愛媛新聞連載平和の使者・陽光)。
 この桜の開発秘話を含め、桜にまつわる番組が2013年4月NHKで放映された(NHK松山放送局制作。四国地方限定)。なお、映画は、2015年11月の全国公開を予定している、との案内が表示されている。(http://tamutamu2011.kuronowish.com/yukousakura.htm)(www.movie-yoko.com/about.html)《概要終わり》

故郷への郷愁、日本への憧れを託した花見

 今日、サンパウロの各地で植えられている品種にはヒカンザクラ、ヒマラヤザクラ、ユキワリザクラ、オオシマザクラがあり、その内、ユキワリザクラは1975年、高知県須崎市からアチバイヤの小野秀夫氏によって持ち込まれた6本の内の1本が活着し、普及した。カンポス・ド・ジョルドン、サンタ・カタリーナではソメイヨシノ、シダレザクラ、ヤマザクラがあると、沖氏(前掲会誌上)が説明している。
 農耕民族日本人にとって桜の開花は農業開始の指標であり、穀物の神が宿ると伝えられていた。中国文化の影響の強かった奈良時代は花と言えば「梅」を指していたが、国風文化の開花した平安時代には「桜」がその代表となって以来、日本人の心の花は「桜」とまで言われている。
 古今和歌集の紀友則、嵯峨天皇、平安末期の西行法師、江戸時代の国学者本居宣長などは、桜を「諸行無常」に譬え、ぱっと咲き、はらりと散る姿ははかない人生を表し、「もののあはれ」を基調とする「潔よしの美学」として精神的象徴の花とみなし、日本の文化に根ざす花となった。
 日本では桜の花見見物は、しばしば、河畔の桜並木をくぐることも、吉野の山の桜のように、宇宙全体が桜の花で埋め尽くされたかと錯覚するような風景や、小高い丘の上、名刹の庭に樹齢数百年という一本の桜の神々しい姿を鑑賞するといった贅沢な春のひと時を過している。
 しかし、その桜を守るための不断の努力ということを考える機会はほとんど無い。まして、「陽光桜」が生まれた歴史的背景も、その桜が今はるかブラジルの地で咲き誇って私たちを潤してくれていることもほとんど知られていないであろう。
 ブラジルでは七月に桜祭りが繰り広げられる。
 現代の移民社会で豊かに暮らす私たちにとっては、娯楽の一つに過ぎない桜見物の際に、遠く日本を離れ、なお故郷への絶えない郷愁を桜の花に託して、咲かし続けて行こうと弛まざる努力を惜しまなかった移民のサクラ栽培者への敬意を払いつつ鑑賞するのも感慨深く、また新しい感情が生まれる時間になるのではないだろうか。(終わり)