湾岸戦争は1991年1月17日に多国籍軍の空爆から始まった。元をたどれば、前年8月にイラクがクエートに侵攻したのが発端だ。
「イラクではナッシリアという町に住んでいたんだが、秘密警察があちこちにいてね、嫌な町だったな。もし休暇をとってブラジルに帰っていなかったら、僕も人質になっていた。10カ月待っても工事を再開しなかったんで、それっきりメンデスの仕事を辞めた」と振りかえる。
青年隊の中で広まっていた「千田はアフリカかスイスに住んでいる」との噂に関し、「どうしてそんな話になったんだろう」と首をひねった。
千田さんは岩手県一関出身、一関工業高校を卒業後、東京都庁の本局の設計課に2年間勤務した。外国行きの夢が捨てられず、まず力行会に相談に行くと、「あなたは青年隊の方が向いている」と言われ、青年隊に決めた。「当時の上司、東大出の課長に『ブラジルに行くことに決めました』と辞職を願い出ると、『オマエはバカだ!』と言われた」と当時を思い浮かべて呵々大笑した。
青年隊の富士宮訓練所に入り、1963年に9期として渡伯した。同期の貝田定夫(かいたさだお)さんと「二人でアマゾンまでヒッチハイク旅行をしよう」と意気投合。途中バイア州まで来たところで、椰子を沢山植えている日系移住地に立ち寄り、千田さんは「農業をやろう」と考え直し、貝田さんと別れた。「あの頃日本で移住宣伝してた『金のなる木はCoco(椰子の木)にある』って言葉思い出してね。米を2アルケール植えたけど全然金にならないので、すぐに出た。一年かけてそこで稼いだ金がサンパウロで、1週間で無くなったよ。それで測量会社を探して就職したんだ」。
それがセルビックス・エンジェナリア社で、ソブラジーニョダム現場に送られた。そこでメンデス・ジュニオールの重役と知り合い、イタイプーダムに誘われた。「僕がイタイプーに行った77年、日本人は僕一人。工期が遅れて遅れて、なんとかしなきゃとなって、1年たって袋崎とか荒木さんとかエキッペがやってきた」と思い出す。
78年に送り込まれたのは、コンクリート型枠や支保工の設計を専門とする荒木昭次郎さん(9期)、『8人のサムライ』の隊長ともいえる袋崎雄一さん(10期)ら。新しい型枠工法を試して工期を大幅に短縮し、国家の命運をかけた大事業を完成に導いた。
「77年に僕は36歳、袋崎は33歳。彼はポ語がダメなんだが、現場で叩き上げた。メンデスの重役に気に入られ、現場のブラジル人何千人を動かす責任者に大抜擢された。普通のダム現場は2、3年だが、イタイプーには5年もいた。思い出深いよ」と一気に語った。
その後、メンデスの仕事でイラクへ行き、湾岸戦争が始まった後は国内のダム現場に移転したが、結局そこを辞めた。フォルタレーザ出身のブラジル人女性と結婚、なんと日本へ10年もデカセギに行っていたという。
国家的事業を救ったヒーローの一人が、すんでのところで湾岸戦争の人質にされそうになり、結局デカセギとは…。戦後移民の人生もなかなか波瀾万丈だ。(つづく、深沢正雪記者)