2011年4月7日午前8時半頃、リオデジャネイロ市西部レアレンゴ区のタッソ・デ・シウヴェイラ校で、銃声と悲鳴が湧き上がった。
同校卒業生のウエリングトン・メネゼス・デ・オリヴェイラ(23)が学校を訪ね、事務室で書類などを受け取ると、元の担任と話したいと言って2階に上がり、教師と言葉を交わした後、近くの教室に入り、授業を受けていた生徒達に銃を乱射し始めたのだ。
驚いた生徒達が逃げ惑う中、二つの教室と廊下で乱射が繰り返され、12~14歳の生徒12人(男子2人、女子10人)が死亡、13人が負傷した。
犯人が使ったのは38口径の6連発銃2丁で、予備の銃弾と迅速に装着するための道具も持っていた。警察は少なくとも60発が発射された上、腰に巻かれたベルトには更に25発分の弾が残っていたという。
校内で最初に発砲したのは2階にあった教室の中だが、警察によると校外でも2人にケガをさせた上で母校に侵入、犯行に及んだという。
教室から逃げ出した生徒が学校の近くで取り締まりを行っていた軍警に通報。校内に入った軍警は、警官が来たのに気づいて上の階に逃れようとする犯人を見つけて脚を射撃。動きを止められた犯人は、「自殺するぞ」と言い放つと自らの頭を打ち抜き、即死した。
事件から5年が経った本年、遺族や関係者達はまだ、胸の痛みや悲しみを抱え、苦闘している。「もう、乗り越えられたと思っていたけど、亡くなった生徒達を追悼する歌を聞いた途端、居ても立ってもいられなくなってしまったわ」と言うのは、当時14歳だったルイーザ・デ・パウラさんを亡くしたアドリアナ・シウヴェイラさんだ。
記念集会には、犯人が新たに弾を込める前に犯人の動きを止め、それ以上の悲劇を防いだ軍警のマルシオ・アウヴェス氏も参加した。犯人が自殺した後に教室にも入り、惨状を目の当たりにした同氏は、「惨事を逃れた生徒達が今も時折連絡をくれるのが唯一の慰め」という。
レアレンゴの学校には、亡くなった生徒達の像も建てられ、24時間体制での警備も行われているが、全ての学校にそれだけの警備体制が敷かれている訳ではない。
遺族や関係者らは今も消えない苦い思いや胸の痛み、悲しみなどを分かち合い、慰め合うと共に、同様の悲劇を繰り返さない事を誓い合った。(7日付G1サイトなどより)