ホーム | 連載 | 2016年 | 県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱 | 県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第17回=モソロー初の日本人は炭坑離職者

県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第17回=モソロー初の日本人は炭坑離職者

入来田純一さんと妻の直子さん(左)

入来田純一さんと妻の直子さん(左)

 懇親会会場であるホテルには入来田純一さん(67、福岡県)が来ていた。彼の父が同地最初の日本人、邦男さんだ。1961年に家族で渡伯、当時純一さんはまだ中学一年、13歳だった。「こっちにきて殆ど学校に行っていない。農業だって本格的に勉強したことない。父も日本から農業の本を取り寄せては勉強していた」。
 鞍手郡宮田町に住んでいたという。「父は貝島炭鉱で働いていた炭鉱離職者でした。仕事を求めてブラジルに。母は最初の何年か、『日本に帰りたい』っていう気持ちが強かったと思う。でも、今になったらこっちが良かった」。そこまでの心境に到達するにはいろいろあったのだろう。
 貝島炭鉱は1883(明治16)年に開発され、1976年に閉山するまで一世紀近くに渡って筑豊石炭産業を支えた。入来田さんが離職した1960年頃には、まさに日本の産業構造が石炭から石油に構造転換する時期だった。1957年から深刻な炭坑不況となり、1962、3年に閉山炭坑数はピークを迎えていた。
 入来田さんは渡伯当初、マイリポランでポンカン栽培を目指し、そこでブドウや桃作りも始めた。次にピラール・ド・スルのコロニア・バンデイランテに移り、そこで16年間いたが「トマトの雑作もやった。にっちもさっちも行かなかった」。そんな時に、モソロー行きの話が突然、降ってわいたように出てきた。
 「来るのに不安はなかったけど、いざ来てみたらビックリ。セッカ期(乾期)に来たから緑がないんだよ。いわゆる〃カーチンガ〃で石ころばかりの灌木地帯。当時は誰も農業適地だと思っていなかった。僕らも、こんなところで本当に農業ができるのかと、あの頃は思った。でも石を取り除いてみると、実は土自体は素晴らしいことが分かった」。問題は水だった。「最初800メートルの井戸を掘って、灌漑で作り始めた」。かなり深い井戸だ。
 「父は土地を段々買い足して、5年後に大谷さんを呼んだ」。今では土地は六つの農場に分かれて3千へクタールもある。「作っているのはメロンだけ。一時は450ヘクタール植えたけど、今は300ヘクタールだけ」という。

鈴木アルマンドさん

鈴木アルマンドさん

 会場には地元の鈴木アルマンドさん(78、二世)も来ていた。「サンパウロはどこに行っても日系協会があるけど、ここにはない」とキッパリ。聞けばパウリスタ線トッパン生まれ、サンパウロ州ではトマト作りなどをしていたが、30年前にモソローへ転住したという。
 「サンパウロでは霜ですべてを失った。ここでは霜が降りない。だからここは良い」。今はスイカを栽培し、ドイツやオランダに輸出している。(つづく、深沢正雪記者)