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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(2)

 母親がめずらしく涙しながら大きくなったお腹を撫でながら、諭していたあの言葉は、太郎が生涯忘れられない「母の言葉」と成りました。
「上の二人の兄ちゃんは、もう兵隊にゃいかんで良かけん、外で働いて貰う。太ちゃんはまだ十歳ばってん、母ぁちゃんのお手伝いをして呉れんネ。そして、よそんもん(他所の人)に負けんような人間になって勉強もして貰いたいが、家の事も大事ばってん、人間は学問が必要な時が来るけんネ」
 この日は珍しく神妙に母に諭されていた太郎の目に、光るものが見えた。元々負けん気の強い、亥年生まれで、猪(いのしし)のように一本気なところも有る。何とそのころより太郎少年の態度行動に変化が芽生えるようになった。
 十歳になった太郎が朝食作りの手伝いをする様にもなった。学校にも進んで行く様にもなる。誰からともなく本を借りて来る様にもなった。
 まさに親も驚く「戦後版二宮金次郎」と噂されるまでの変化の孝行ぶり。十一歳になった太郎少年は、あの悪ガキから一変近所の話題になっていく。秋も深まり、北風が身にしみる頃、小さな田舎町の路地に野菜をリヤカーに山と積んで甲高い声で「野菜、野菜、ヤサーイ」と声が響く。すると路地の家々から、人々が集まって来る。その声の主は誰あろう、かの悪坊主ガキ大将の「太郎少年兄弟」ではないか。
 太郎は先頃まで、進駐軍の手先となってジープに乗り込み、得意気に道案内。下町の隅から隅まで知り尽くした悪坊主の面影はない。リヤカーの荷台は地元農家で採りたての超新鮮野菜が一杯である。リヤカーの荷台は見る見るうちに空(から)に成って行く。あの戦時中の悪ガキではない。十銭二十銭の小銭を貯め、それが妹達の色紙やエンピツ等、また遊び道具代の一部になるらしい。父母には心強い家計のお手伝いとなっていた。
 しかし、まだまだ良い事ずくめばかりでは無い。夜遅くまで明朝の野菜の用意をする。早朝から売り歩く野菜の新鮮さが高く喜ばれ、学校の遅刻は当たり前で有る。登校はするが既に授業は始まっている。ソロリ、ソロリと教室に入る。目ざとい先生に見つかり、襟首を掴まれて廊下に立たされる。廊下で「半日休業」の繰り返し。
 だが、本人は至って呑気、立ったままで居眠り船を漕ぐ。全く効き目なしで、「始末が悪い」と先生から親に注意が行く。だが、家庭の事情もあり、泣き落されて先生が半ば諦め顔。むしろ同情が先に立つ。先生の方から太郎に目をかけてくれる様になって行く。
 さて終戦後の日本の様子を詳しく描くことは、一介の作者ごときには、はなはだ無理がある。しかし、戦後の小農家で子沢山、その上、敗戦で引き上げ軍人であふれる故郷。泣き付かれて、お人良しの太郎の両親は、我が家の食料まで人様に融通する。それでも父母を責める子供がいなかったのが不思議であった。近所の人達は「あの家の人柄ではないか」と噂していた。太郎とて、食べ物に一度たりとて不平不満を言う子ではなかったと聞く。
 しかし、千年(ちとせ)家は祖父母、両親、五男、三女の子供で、合計十二人の大家族であった。一向に楽になる兆しは見えなかった。
 時は移り、昭和二十三年(一九四八年)。初秋の頃には太郎も進駐軍について回るのは辞めていた。そのころ、太郎の父の友人で、大阪市に自動車修理工場を持っている人の世話で、太郎の兄は十七歳で見習いとして単身大阪に行く事となった。