善次郎は七年前に五人の子どもを引き連れて、神戸港からモンテヴィデオ丸に乗り、移民としてサントス港に着いたのだ。それは一九三一年のことだった。
ブラジルと日本の政府の合意により、多くの移住者がやってきて、ブラジルの農村地帯、特にコーヒー地帯の農園に配耕された。そのころのコーヒーは金のなる木だと喧伝され、その誇大広告に煽られて、農業経験のないものでもブラジルに夢を託して移住を決意したのだ。善次郎もまたその一人であった。
娘と母親は毎朝、家族が畑にもっていく一日分の食事の支度をした。暑かろうが、寒かろうが、どんな天候でも家族は毎日畑に出て仕事をした。
もっとも、大雨の日だけは畑仕事も休みだった。大雨では畑仕事ができないからである。母親の幾千代は背が低く、一五〇センチくらいしかなかったから、育ち盛りの藤子に追い越されそうになっていた。藤子は活き活きとした褐色の目をもった娘だった。
善次郎は長靴を履き、鍬とシャベルを背に担ぎ、鉈を手にだまって家を出た。誰に行き先を告げるでもなく、ただ、黙々と畑に向かった。その後を女たちが鍋、それに水やお茶や牛乳が入った器をかかえて従うように歩いていった。みんな、その日に何をすればいいのか分かっているのか、口数も少なくただ歩くだけだった。
畑に着くと、まず、いつも暗い顔で悲しい目をした秋雄が、玉蜀黍や綿の種が蒔かれていく溝をまっすぐ掘っていった。英新は種を選びながら延々とつづく溝に種を撒いていく。兄弟のなかで最も動きが鈍く体の弱い英三は、日の出とともに肌が赤くはれ上がるのを我慢しながら畑仕事を手伝っていた。すぐ、息切れがして体の節々が痛みだす。音を上げていちばん先に弱音をはき、痛みや疲れを訴えるのも英三だった。種蒔きはいちばんきつい畑仕事だったが、その反対に収穫時はもっとも楽しいときだった。家にお金が入ってくる時なのだ。兄弟は誰がいちばん多く収穫できるか競争しながら、仕事に精出した。
仕事は早朝からはじまるので、昼食の時間も早かった。一〇時ころには畑で最初の食事をした。お粥のようなご飯、ひと片れの鶏肉、ゆで卵とパンが主な昼食だった。午後二時ごろにおやつ代わりに鍋に残ったものを食べて、また畑に戻っていく。その後、母と娘は夕食の支度のために、夕日が落ちるころ家路につき、残りの家族が家につくころには、テーブルには夕食が整っていた。帰るとすぐ、男たちはたらいで水浴びをしテーブルにつくが、夕食は昼間、食べたものと変りばえもないものが、並ぶのが常だった。
一九三八年は農作物の実りも悪く、収穫も期待していたよりも少なかったが、善次郎は馬を買おうと、貯めていたお金をだす決心をした。そのころ、日本人農家のほとんどは畑を耕すために馬を使っていた。何日も、何回も、近辺の馬を飼っている農場主と交渉して、善次郎は三千レアイスで一頭の馬を買った。栗毛色でまだらに白い斑点がある、痩せてはいるが、動きが俊敏な馬だった。馬の糧に関しては全く心配がなかった。馬を野原に放し、自分の土地の草を食べるのか、隣の原っぱの草を食べるのかは気にもかけなかった。
子どもたちは、父親の投資に夢をたくして「ユカナ」と名づけた。息子たちは全員、馬を乗りこなせるよう練習した。それは義務だった。「ユカナ」にいちばん愛着を示したのは末っ子の英新だった。いつも何かにかこつけて馬といっしょに過ごしたがった。売店まで買い物に行かなければならないときや、隣家に何か知らせがあるときなど、彼は最初に名乗りをあげた。
愛馬に跨り、アメリカの西部劇に出てくる荒野をすすむカウボーイのような気持ちになることができるからだった。英新はまた「ユカナ」の手綱を引っぱり、畑を耕す役目も引き受けた。おとなしい馬で、畑を耕すために鋤を引っぱり、何度も何度も往復することも厭わなかったのである。