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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(15)

 さて、千年太郎青年は、岩下ご夫妻の親愛なるご指導ご鞭撻により、岩下家の主生産品のトマテ(トマト)生産出荷に向けて、頑張って行く。五、六ヶ月はアッと言う間に過ぎた。ところがここで予想だにしなかった事態発生。早くも挫折の危機に見舞われる。九月にはいり、季節は春ながら海岸線特有の蒸し暑さが続き、トマテには大敵のべト病が蔓延。毎日、噴霧器担いで「ギィコ、ギィコ」と消毒が続いた。
 ここで予想だにしなかった事態が到来した。無念千万、千年太郎の身体に吹き出物(病名、出来物)。根ブトが全身に三十個も噴き出し、寝起きさえも出来ない始末。岩下氏の計らいで組合本部の病院に告げられ緊急入院。その結果、その結論として「千年には畑の土壌が身体に会わない。彼は特殊体質」と主治医から宣告が下りた。
 色々とできる処置は、岩下氏のご厚意で手は打った。だが組合本部移民課の課長、山中氏の最終判断で、「千年は土地に合わず、移転せねば完治しない(原始林の風土病)」との決断となった。この上は移転の他なし。
 よって、岩下氏を交えて協議。山中移民課課長の決断に一任。ブラガンサ・パウリスタの行方正次郎(なめかたまさじろう)氏の養鶏場へ移転することと決まった、養鶏農家に二ヶ月後、無事移転した。(ちなみに行方正次郎氏の兄はブラジル薬草界の神様と評判高い、行方健作氏)
 ところがこれが運勢なのか、彼の運命なのか。人生行路に大きく関わって行く定めとあいなって行くのであります、行方氏は新潟県小地谷出身。当時「パウリタ新聞短歌の選者」の秀才である。
 ブラガンサ・パウリスタ市から、これまた二十キロメートル離れた、セッテ・ポンテ植民地で養鶏、果樹園経営。ご家族はパトロンご夫妻、子供男女五人の七人家族。それに千年太郎の先輩竹森智志さん(たけもりさとし)君が就労していた。千年君より一航海遅い五七年五月二十一日着の悟君であった。
 そうしたことから、ブラジル移住は千年君が先輩である。それに千年の故郷は元々養鶏業出身で有ったので、行方家では竹森君の先輩として行動する事となった。一事が万事スムーズに行った。幸いあの強情な吹き出物(出来物)は医者の見立て通り嘘のように直って行った。
 この地セッテ・ポンテはサンパウロ産業組合中央会、組合員主体の植民地であった。
 その上、行方(なめかた)家の仕事は彼の得意とあって、行方氏が全面的に信頼。ほとんど千年君任せ。養鶏面は鶏舎増築まで、全て太郎君に一任。ここでもパトロンに最初から絶大な信用を得て、業績発揮。セッテ・ポンテ地区の農家の立役者然として活躍出来たようだ。セッテ・ポンテ植民地日伯文化協会の青年部を設立、代表代理をすんなりと任されるまでになる。
 養鶏業務の「合間合間」に果樹園のお手伝いも精力的にこなした。野球部は竹森君の得意なスポーツながら、何しろ部員がぜんぜん足りない。それでも一時は女、子供を交えて試みた時期もあった。しかし野球にはならなかった。ブラガンチーナチーム(ブラガンサ・パウリスタ市)に編入して貰い、あちこちに試合に行っては「勝ったり負けたり」というよりは、「負けたり負けたり」して喜んでいた。
 おかげでブラガンサ市では若者の青春を謳歌出来た千年君であった。そしてつつがなくコチア青年としての契約農年を過ごした。