軍事政権時代に三つの大臣職に就任するなど、ブラジル政界の大物政治家として知られたジャルバス・パッサリーニョ氏が5日、ブラジリアの自宅で老衰のため亡くなった。96歳だった。
1920年にブラジル北部のアクレ州に生まれたパッサリーニョ氏は、幼い頃に同じく北部のパラー州の州都ベレンに移住。そこが同氏にとっての拠点となった。
軍人として名を馳せたパッサリーニョ氏は、1959年に石油公社ペトロブラスのアマゾン地区役員に指名された事で政界とつながりを持ちはじめた。1964年には軍事クーデターに協力。同じ年にパラー州知事に任命された。65年には所属政党が解体され、軍政支持政党の国家革新同盟(ARENA)の政治家となった。
66年にパラー州選出の上院議員となった後、コスタ・エ・シウヴァ氏の大統領間接選挙に協力した功績で、労務・社会保障相に抜擢された。68年12月には、裁判権の軍移行や報道の検閲を強め、国内の反政府派の取締強化を定めた軍政令第5条(AI5)の成立にも関わった。
メジシ政権では1969年11から74年3月まで教育相をつとめ、識字率向上に寄与した。79年には軍事政権時代の政治犯、軍の両側に対する恩赦を認めた恩赦法の制定メンバーとしても活動した。また、ARENAと野党の民主運動(MDB)による二大政党時代を終わらせると、社会民主党(PDS)を創設、政党結党の自由化にも貢献した。
80年代前半には、軍政最後の政権となるフィゲイレード政権で社会保障相をつとめた。
軍政終了後も、90年からのコーロル政権で法相に就任。コーロル氏が大統領を辞任した後のイタマル・フランコ政権では上議の一人として、財政汚職の議会審議委員会の長もつとめた。
カルドーゾ政権では96年から人権問題のコンサルタント役をつとめたが、共産主義には強く反対していた人物として知られ、軍事政権の到来も「共産主義化を阻止するために仕方がなかった」と語った。94年の大統領選では、8年後に大統領に選ばれた左翼勢力の大物、ルーラ氏を「過激な主張を持つ人物」として批判していた。
パッサリーニョ氏の死に関し、テメル大統領代行はその死を悼んだが、ルーラ氏の後継者であるジウマ大統領はコメントをしていない。(6日付フォーリャ紙より)
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