農園主が雇用者に対して行っている搾取はあきらかだった。彼らは自分たちの不正を隠そうとして、一九二九年にニューヨークの株市場で起きた世界大恐慌をたてにとって、安い賃金を支払いつづけていた。この世界大恐慌は主要銀行を倒産に追いこみ、アメリアの住宅システムの借財は膨れ上がる一方となり、富める国ほど生産に大きな支障をきたし、紙幣はたんなる紙くずとなり、失業者の数も増える一方だった。
コーヒーの競り売りが行われているサントスでのコーヒー市場で金融下落を数字で見ると、1929年8月、ニューヨークの株式市場の大暴落の2カ月前、コーヒー1袋は国際市場において20万レイスで取引されていたが、1930年1月には2万1千レイスに下落した。
最も重要なブラジルの証券取引場であるサントス広場はみる影もなく、モラトリアム状態となった。ブラジルはコーヒーの国際市場の60%を占めていたが、最低値の間はコーヒーを売ることもできず、ストックも溜まる一方となった。その影響はすぐ現れた。
ゼツリオ・ヴァルガス政権はその打開策としてサントスにストックされているうちの1800万袋を買い上げた。もう一つの打開策として7100万のコーヒー豆の袋が焼かれた。これは3年分の世界市場に匹敵する数量であった。
これらの打開策はコーヒーで儲け、ブラジル経済を牛耳っていた大富豪の没落に繋がった。輸入業者は用心深くなり、どのような取引条件にも応じようとしなくなっていたからだ。
このような思い切った打開策は、市場を活気づけ、コーヒーの仲買業者、農場主の経済状態の安定化へとつながり、その線上にあったブラジル経済の各分野も同じように活気づいていった。雇用も正常化し、国民も必要なものを買う金を持つことができるようになった。
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平一家のブラジルでの一歩も、このような緊迫した経済状態のもとで始まった。
一九三〇年、ジュリオ・プレステスの大統領就任を政略的に阻止したゼツリオ・ヴァルガス仮政権との間で、サンパウロ州政府は緊迫状態にあった。
日系人、あるいは日本人移住者にとって、サンパウロで市民戦争が起きることなど想定外のことであったが、一九三二年に護憲革命の口火が切られてしまった。
サンパウロの経済を牛耳っていた少数の大富豪は、大衆に媚びるようなゼツリオの政策、たとえば、労働者の給料の統一化や各州へ派遣された臨時政務官(他州生まれの臨時政務官もいた)の州の政治への関与に大きな不満をもっていたのである。
ゼツリオ大統領に反対するデモ行進が五月二三日に行われたが、そのとき四人の学生が死亡したことで、革命は口火をきった。銃を手にする時が到来したのだ。
七月九日から一〇月一二日まで、サンパウロ州内奥地のあちこちで仮政府を支持する州との交戦がくり広げられた。サンパウロ市内からそう離れていない地域、アチバイア、ブラガンサ・パウリスタ、カンピーナスやミナス州、パラナ州、リオ州との境界でも紛争が起こった。
その当時、飛び交っていた情報というのは、大地主たちを震え上がらせるものであった。彼らの土地は戦争のための要塞として没収され、没収された土地には濠が掘られ、爆撃のためにスイス製チーズのように穴だらけになってしまうというものであった。
戦いはサンパウロ州が敗れて終わったが、その死傷者の正確な数は未だに公式な発表がなく不明のまま。ある記録によると二二〇〇人くらいだとされている。いずれにせよ、二年後に、連邦政府は憲法の立憲に賛成せざるを得なくなり、一九三〇年の革命で失った民衆の権利をとりもどすことになった。
こうして、革命はサンパウロ州の遠くを通り過ぎていき、人々は平穏な生活を送るようになった。日本人が密集している西中部地方でも革命のことは耳にとどいていた。
しかし、相変わらず移住者は困難な生活を強いられていた。そのため兵譽は日本へ戻ることを家族に訴えるようになった。心の中では長男のいうことに賛同しながらも、善次郎は人生の敗北者と見做されることを思うと、もう少しブラジルで頑張ってみよう、と言うしかなかった。
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