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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(18)

 どうやら朝のコーヒー(軽食)なのだ。何とテーブルの上には、大きなスイカとかマモン(マンゴ)とか、色ずいたバナナに、自家製らしいパンが山と出してある。果物、パンはさすがブラジル、上手に出来ていた。しかし牛乳とバターは匂いが強くて、手を付けられなかった。
 さて長々と日本の家族の話をして、又井出利葉さんの移民人生「喜怒哀楽談義」を夢中で聞いている内に、昼食の時間になってしまった。その時出された地鶏の煮つけとから揚げの美味かったこと(注=この時出された地鶏の味は、太郎が一生の語り草となる)。
 元々日本の実家は養鶏場であった。そして今日まで御世話になったブラガンサ・パウリスタの行方(なめかた)家も養鶏農家で、鶏の味は誰よりも知っている積りであった。だが、その日に出された地鶏は「天下一品」と称するより、他に言葉は見つからなかった。
 世の中に鶏は数々あれど、この時ばっかりは六十年経った今日まで、食事の度に思い出すほど強烈で舌が忘れていない。以後、今日まであの味にはお目にかかった事がない。素晴らしい思い出となった。無駄口を叩いている間に午後二時になった。
 ミランドーポリス行き汽車は三時が最終であるとか。「駅まで歩いていては間に合わない、もう一晩泊って行きなさい」としきりに井出利葉さんのおばさんや娘さんに強く勧められたが、明日の予定があるからと辞退。それならと井出利葉さんが馬車で駅まで送ってくださる事とあいなった。
 太郎は意を決して、おばさんに娘さんの名前を聞いた。おばさんは笑いながら、うちの娘はもう二十七にもなるばってん、田舎には中々相手が見つからんとですたい、と名前より先に年が出た。
「名前は、長女ですけん『初恵』と言いますたい」
太郎「ああ、初恵さんですか。いろいろお世話になりました。またそのうち地鶏をご馳走になりにきてもいいですか。今回は、おじさんに会えて本当に良かった。日本の親父達に知らせたらきっと喜びますよ。では、御元気で。ありがとうございました。失礼します」と井出利葉さんの馬車に飛び乗った。
     ☆    ☆
 時刻は三時半、バウルー行き本日最終汽車に乗り込んだ。
 あの時代、機関士はのんびりしたもの。駅とは反対側に飛び降りて、広大な畑に消えた。しばらくして、両脇に色ずいたマモン二、三個持って畑の中から、ごそごそと帰って来た。
 日本では絶対見られない光景だが、当地では日常茶飯事だそうな。それから、ゆるりと汽車は動き出した。そしてアンドラジーナ駅でトーマカフェらしい。機関士も、どーやら昼のお茶の時間らしい。こちらの都合など知らないよ、とばかりの機関士はうわの空。
 そして、ようやくミランドポリス市駅に着きました。すでに夜の七時。トランクぶら下げてホテルに着いた。部屋をチェクインした。夕食は無いらしい。
 ひとまずシャワーを浴びるため、服を脱いで「バニェイロ」(風呂場)で蛇口を開けて驚いた。水しか出ないのだ。これは迂闊(うかつ)であった。最初から訊ねて置くべきだった。「ええい、ままよ」と蛇口を開けて、頭から覚悟をきめて浴びた。「あら、不思議」そんなに冷たくはない。そりぁそうだ、この時期ノロエステ地方はサンパウロ州内では一番暖かいところだと気がついた。
 シャワーを一浴びして外出した。「すがすがしい」。公園にはきれいな街灯があり、サンパウロ近郊並みに綺麗だ、と安堵感を覚えた。キョロキョロしているとシネマ館が見えた。そのほうに歩いて行くと、隣はレストランらしい。