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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(8)

旧姓・平藤子、結婚して山崎姓となった

旧姓・平藤子、結婚して山崎姓となった

 畑仕事に明け暮れていた家とは大いに違い、ツパンの家は住家としては、申し分のないもので大変な進歩といえる。家は大きな敷地内にあり、果物の木もあり、畑を作るだけのスペースもあった。井戸からは澄んだおいしい水をくみ出すこともできた。便所は外にあったが、下水道に繋がっていた。竈(かまど)は石造りで薪をくべて煮炊きができるようになっていた。こんなふうに英新の病気は、平一家がサントス港に着いて以来の思わぬ人生の転機をもたらしてくれたのである。
 養蚕にとって、大切なのは桑の木の栽培である。びっくりするくらいの速さで蚕の幼虫が桑の葉を食べる。裏庭に植えられた桑の木の葉っぱだけでは足りないのでないかと英新が心配するほどの勢いで食べていた。
 養蚕をすることになった家は町にあったが、敷地がたいへん広く、農家のような感じだった。現在ではサンパウロ州の奥地でも、このような大きな敷地は何百万レアルの価値がある。日本の面積はサンパウロ州と変わらないといわれるから、日本の住宅事情とは対照的にその大きな敷地にたった一家族しか住んでいないのだ。
 一九三〇年代のブラジルはヨーロッパやアジアの国々から移住者を受け入れることで多国籍の人口も増えることになったが、「笠戸丸」以降は日本人も、1万4983人がブラジルに入国してきた。第一次世界大戦後、移住熱は白熱し、16万4千人の日本人がブラジルに入国してきた。その頃になると、初期移民の子弟が成人に達していて、相互扶助の組合など種々の団体を創設することに意欲的だった。
 日本人移住者はアマゾン地区、特にパリンチンス地方ではジュート栽培に従事していた。アマゾン川の岸辺沿いにはジュートを栽培する55の植民地が点在した。各家族は100もしくは1000ヘクタールの土地を有し、ジュート栽培の生産を増していた。
 最も重要な日系の農業組合はCAC(コチア産業組合中央会)であった。公式には、コチア地域でジャガイモを栽培していた83家族の人々によって1927年に創立されたとされている。しかし、実質的には1924年からすでに組合ができていたという。
 同中央会は南米で最大の組合となるまでに成長していた。1988年の資料には1万6309名の組合員、並びに5900万ドルの資産が記録されている。豊かな暮らしができるようになった日系二世は過去に受けたトラウマを乗り越え、ブラジルでの定住を望むようになり、日本への帰国を夢見ていた日本人移住者は若い世代に従う他はなかった。
 ブラジルで生まれた多くの二世の人生の目標の中に日本への帰国は、もはや念頭になかった。彼らにとって、生まれ育ったブラジルの地で金を儲けて、家族を構成することこそ人生の目標となっていた。農村地帯や町でも日系人同士の結婚が盛んに行われたが、他の民族との結婚は数少なかった。
 ブラジル人との結婚は稀にしか聞かれなかった。しかし、他の民族との混血、異種文化や異種宗教との混淆は避けられなかった。
     ☆  
 一九三九年の冬にはツパンで最初のフェスタ・ジュニーナ(6月祭)が行われ、焚火や紙気球(バロン)が夜の空を焦がした。その頃になると、多くの移住者やその子弟はカトリック教の信者に改宗し、地域の教会に通うようになっていた。そして教会はフェスタ・ジュニーナのような宗教関連の祭りを奨励していた。
 六月は聖アントニオ、聖ヨハネ、聖ペドロを祝う月で、大衆にとって、祭りに浮かれ騒ぐ月だった。明るい雰囲気に包まれたこの月は、家族同士の結婚を世間に公表する絶好のチャンスでもあった。このような雰囲気の中で、平の家と山崎の家は縁を結んだ。
 一八歳を迎えようとしていた藤子と二歳年上の重男との結婚が公表されたのである。娘の婚約が行われた夜、善次郎は人生の夢を半ば達成したような気分だったが、心残りはめでたい席に長男の兵譽が出席していないことであった。藤子と重男夫妻は七人の子宝に恵まれ、ツパン市とプレジデンテ・プルデンテ市(サンパウロ州の西部地方)を往来するようにして住みつづけた。