「日本移民が築いた信頼のおかげで、一人旅でも南米で人々に受入れてもらえた」―そう語るのは70年代に北南米を自転車で旅した橋勝雄さん(71、東京都)。海上自衛隊に入隊し、遠洋航海で初来伯。その後、米国に移住し、現在はロサンゼルスで庭園業を行う。「とにかく日本を出て広い世界を見たかった」という勝さんに、その半生を聞いた。
1944年に東京で生まれ、「もっと広い世界を見たい」という思いから、63年に海上自衛隊に。幹部候補生学校で鍛えられ、2年半後に練習艦隊に乗船。戦後初の艦隊入港とあって寄港地サントスには全伯から日系人が集まり、見渡す限り人だらけ。「あれほど熱烈に迎えてくれたのは驚き」と懐かしんだ。
70年に退官。一カ月後に自転車とともに渡米、一人旅を開始した。1ドル360円、一般渡航者の持出限度500ドルの時代。横浜から出航、ロサンゼルスで庭師の助手をして4カ月資金を貯め、計1千ドルまで増やした。長距離バスでテキサスへ移動、2カ月かけて日本国旗をつけた自転車で中米を下った。国旗を見た現地の人から日本移民を紹介してもらい、泊めてもらうことも度々あったという。
途中のグアテマラでは国境にずらりと並ぶ軍隊を目撃。コロンビアに入ろうとしたところ「自転車での旅は危険すぎる」との忠告を受け、飛行機でリオまで行くことに。自転車はパナマからサントスへ船便で送った。
サンパウロ市では格闘家・アントニオ猪木氏の実兄の空手道場に居候し、2カ月後に自転車が届いた。サンパウロ市からパラグアイ、終点のブエノスアイレスへ到着したのは71年の4月。実走7千キロ、1年間をかけた旅だった。
その後ロスに戻って庭師の仕事で貯金を続け、3年後に日本食レストランを開店。店は22年間にわたり営業したが、生来の旅好きは治らない。00年に豪華客船「クリスタル・ハーモニー」に日本食料理人として乗船。この時の体験をまとめ『客船シェフ航海記』(成山堂書店)として3年後に出版した。
ブラジル日系社会について尋ねると、「僕のような旅人が南米で受入れてもらえたのは、戦時中の迫害も乗り越え、移民一世の人達が信頼を築いてくれたおかげ。本当に感謝しかない」と真剣な面持ちで答えた。
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戦後初の練習艦隊でサントスへ入港した橋勝雄さんは現在、米国「倫理の会」会長も務めている。ロサンゼルスで庭園業を行いながら、県人会などの集まりでは「羅府らふ亭勝助」の高座名で落語を披露する。今回は当地の同会の招聘で4度目のブラジル来訪だ。取材に同席したブラジル倫理の会の須郷清孝会長は、なんと「65年当時、サントスまで艦隊を歓迎しに行った」と言い、2人とも感激の表情を見せていた。ただの取材のはずが、なんとも不思議な〃再会の場〃となった。