ブラジルは日本国に対しては宣戦布告をしていなかった。その日、ブラジルの新聞は大見出しで「民主のため、自由のため、正義のためブラジルは全国民の意を受けて、ドイツ、イタリアに対する戦争を容認した」と報じた。
このようにして、正式にドイツとイタリアはゼツリオ政権の敵国になってしまったのだが、この二つの国からの移住者やその子弟は、南部地方や南東地方の移住地で常と変らない生活を営んでいた。ドイツ人やイタリア人も宣戦布告後には、財産を没収されたが、日本人のようにまるで伝染病患者のようなひどい扱いは受けていない。
歴史家のなかには、日本人が反感をもたれ差別を受けた理由として、日本人の容姿、文化、言語の違い等を挙げる者がいる。そのような理由から日本人は周囲から見張られ、公共の場で日本語を話すことを禁じられ、少しの過失でも容赦なく捕縛されたのである。
第二次大戦の一時期、ブラジルには少なくても日本人を収監した収容所が二カ所あった。一つはウバツーバ市のアンシエッタ島にあり、もう一つはパラナ州のピニャイスに建てられていた。サンパウロ州は捕縛した人間を海の孤島に送り、パラナ州は反対に海辺から遠ざけたのである。これは海辺の住民が敵国船と交信するという懸念から海岸線から退去させたものである。
しかし、収容所の暮らしというのは、何年も家族と引き離され、不便や不快な思いをしたことは確かだが、ヨーロッパでナチが行ったような残虐行為に比べれば平穏なものだったのである。ペルーの日本人たちが経験したようなアメリカの収容所に強制的に送り込まれるようなことも起こらなかった。ペルーは「笠戸丸」がブラジルに入港する十数年前から日本人の移住が始まっていたのである。
ペルーの日系人は、ペルー政府とアメリカ政府との間で条約が交わされ、テキサス州やニューメキシコ州の収容所に連行されている。その二年後に仮出所があり、ニュージェルシーの農村地帯に廻された。アメリカ在住の日系人も同様な処遇を受け、大多数のアメリカ日系人はペルー日系人と同じ収容所で生活することになった。
もっとも、アメリカ生まれの日系人には別の選択肢もあった。それは、銃を取りアメリカ軍人としてヨーロッパ戦線で戦うことを承諾することであった。
英新の記憶にはツパンの日本人を集めた収容所のようすが焼き付けられている。彼の仕事は収容所内の人々に水を持っていくことだったのである。
英新は収容所で囚人に水を配っていたころ、兄の兵譽が困難を極める状態にあることを夢想もしていなかった。
第4章 不透明な敵
兵譽は奥地を自由に歩きまわり、自分の信念とする活動に余念がなかった。彼はいつもスマートにスーツを着こなし、上手なポルトガル語を話したので、軍の兵士に呼び止められたりすることもなかった。
そんなある日、兵譽はサンパウロ州の南東に位置するサンパウロ市から92キロ離れたイツーの町にいた。それは「大政翼賛同志会」の仲間との会合があったからだった。軍部のトラックはサン・フランシスコ広場に止まっていて、運転席には窓に寄りかかっている運転手の男が座っていた。後の三人の兵士はトラックの横でおしゃべりに余念がなく、周囲にはまったく無関心のように見えた。
「おい、おまえ!」
とつぜん、三人の一人が呼びかけた。
日本人は、同じ歩調で歩きつづけている。
「おい、トウゴウ、おまえのことだよ」
と、兵隊はなおも呼んだ。この場合、トウゴウは日本人の比喩で、日露戦争時の活躍で世界に名を馳せた東郷元帥の名前を叫んでいるのだった。
その時、すでに舗道や広場にいた人々が兵譽の方へ視線を向けていたのだが、彼だけ聞こえていない様子で歩きつづけた。
兵士は歩調を速め、兵譽に追いついた。
「おまえを呼ぶのが聞こえなかったのか。そこに何を持っているのだ?」