兄さんが投獄されてからひと月たったころ、善次郎は、いつものように太陽が顔を出すずっと前に起きていた。バケツの水を半分たらいに移し、体を洗い始めた。
髪をまんべんなく濡らしてから、後ろに櫛ですいていた。額の両側の入り込みがあり、そのうち禿げるようになるだろう。お湯を沸かそうと思ったとき、薪がないことに気づき、木を取りに外に出た。
濡れないように防水シートが被せてある所まで行き、四〇キロはありそうな太い木の一片を、汗をかきながら斧で割れるような位置に立て、斧を振りおろした。
最初の一撃で木の塊りは半分に折れた。善次郎がもう一度斧を頭上まで上げたとき、心臓発作が起こった。
数日前からか善次郎はいつもより寡黙だった。息子の投獄以来、悲しみを隠すことができず、べそをかいたような顔をしていた。その顔は庭で倒れたときも、悲しそうなままだった。
善次郎には妹がたった一人いた。妹の名は「フジコ」で、彼女は両親の面倒をみるために日本に残ったのだが、その妹をしのんで自分の一人娘に「藤子」という名前をつけたのだった。善次郎は移住を決意し、ブラジルで金を稼ぎ錦衣帰郷し、日本の親戚とブラジルで稼いできたお金を分かち合う、という夢をもっていた。
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平家の故郷には、鹿児島湾の沿岸に位置し、火山のなかでも最も活発に噴煙をあげている桜島御岳がある。
鹿児島は一五四九年八月一五日にフランシスコ・ザビエル宣教師が上陸し、キリスト教の日本最初の入り口になった土地である。
ツパンの小さなお墓に埋葬される善次郎の通夜には、キリスト教信者と仏教信徒が入り混じって参集した。遺体が収められた棺の前に進み出て、それぞれ十字を切る者もいれば、線香を供える者もいた。
幾千代は父親が死んだことを長男に知らせなければいけないと思った。英三と秋雄を、娘婿の山崎と娘の藤子に託して、末っ子の英新を連れて遠いイツーまで行き、次いでソロカバまで出向いた。
そこでは、英新の通訳で、兵譽がサンパウロ市の未決の者が入れられる拘置所に移されていること、サンパウロの拘置所で刑が最も重いとされる国家の治安を乱した罪に問われて、裁判待ちをしていることなどを知らされた。
そのとき、英新は警察の黒人署長が日本語を話せることに驚いた。
その署長は幾千代に大変親切にしてくれた。「心配しないでください。兵譽は無事にしていますよ」となぐさめの言葉を別れ際にかけてくれた。手持ちの金がなく、とてもサンパウロまではいけない母子は、ソロカバから家に帰ったのである。
サンパウロの拘置所に入ってから兵譽はブラジルの悪弊である、書類攻めにあっていた。次から次に出される書類にサインしていた。こんなにたくさんの書類にサインするのは生まれて初めてであった。
裁判について説明する書類、医師の診断書、前歴証明書、住居証明書等である。どの書類も最終項には「囚人の署名」というスペースが設けられていた。そのスペースに自分の名前「Heiraka Taira」と丁寧にサインした。サインの筆跡は見事なものだが、書き込まなければならない書類は、相も変わらずスペルや文法的な間違いだらけのものだった。
兵譽に提出された書類のなかには、革命分子との嫌疑をかけられているグループの一員の名前が列記してあるものがあった。
それは軍事裁判所が発行する国家安全法に基づいて裁かれることになっていることを報告する文章のコピーであった。その書類にも、一目で分かるような間違いが見られるのであった。リストの筆頭に林シュウサクの名前が載っていた。そこには、林伊作並びに林ナカの子息、44歳、既婚者、日本人、山形県、耕作人、仏教徒、バストス在住と記してあった。
次に栗山佐吉、「サンタ・クリヤマ」並びに「サン・クリヤマ」の子息、34歳、既婚者、日本人、秋田県出身、耕作人、仏教徒、ペレイラ・バレット駅在住とあり、この場合、敬称の「さん」が人の名前になっている。たぶん、「父親の名前は?」という質問に「クリヤマさん」と答えたためであろうか。また、「~さん」がどうして、「サンタ」になったのか書記官のみぞ知るである。
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