故郷に帰り、賑わっていた町並みや焼け跡の原っぱを自由に歩き回ったりする夢は1943年3月3日に崩れ去った。
その日、最高軍事裁判所は国内の安全法令を犯した犯罪者の刑罰を発表したのである。
1942年4月14日に逮捕された平兵譽は8年の禁錮刑、1942年3月26日に逮捕された西山武雄には6年6カ月の禁錮刑、1942年5月26日に逮捕された居城半藏は6年6カ月の禁錮刑、1942年7月10日に逮捕された安保キタロは6年6カ月の禁錮刑、1942年5月25日に逮捕された杉俣政次郎は8年の禁錮刑、1942年3月26日に逮捕された日下部雄悟は8年の禁錮刑と発表された。
当時としては、刑罰を言い渡されると大人しく受け入れ、時が経つのを忍耐強く待つしかなかった。そして、忍耐強さこそグループの特徴であった。拘留者たちは身の回りを清潔に保つことこそ、狭いスペースに閉じ込められた者たちによって、生き延びる術だと知っていた。
それでも、皮膚病、腫れ物、風邪、肺炎、肺病などを媒体する虫や痛んだ食べ物、湿気や淀んだ空気の被害にあっていた。
日本人はいつも整然としていた。寝るときも壁に据えつけられた四つしかないベッドを順繰りに使用していた。それでも兵譽がいた牢に一八人が詰め込まれていたので、ほとんどは地面に寝ていた。
各自、小さな枕と筵、それに寒い時に薄い毛布に包まって寝ていた。音のない世界で蚊の飛び交う音だけが聞こえた。時々、蚊を叩き潰すパチンという音だけが狭い牢内に響く音だった。
便器の反対側に面した位置に3個の箱が置いてあり、それは物置として使われていた。なかには石鹸、歯磨き、歯ブラシ、櫛や髭剃り道具などがしまわれていた。
ブラジル人と異なる点は、日本人は牢のなかに食べ物をしまうことをしなかったことである。それは、食べ物が害虫を引き寄せることを知っていたからであろう。服は鉄格子に吊るされていた。
日中、彼らはストレッチをしたり、列になって、牢の中をぐるぐる歩き回り、前の者の背中を叩き、筋肉が萎縮するのを防いでいた。午後一時ごろに日光浴のために外に出て、週に二回シャワーを浴びるための列に並んだ。各階の廊下の奥に管があり、そこから冷たい水が流れ出ていた。もちろん、みんなが体を洗う時間などないのがふつうだった。
雨の日は特に大変だった。拘置所の庭での日光浴もなく、囚人は狭いスペースを共有する以外はなかった。ブラジル人の中には、目が合ったり、顔の表情が気に入らなかったり、ぶつかり合ったりしては結果がどうなるかわからない喧嘩を始める者がいた。
それに反して日本人たちは狭い空間の中で瞑想に耽っているかのようで、仏教のお坊さんのように、各人の考えまで見据え、頭の中を整理しているようであった。
兵譽は注意深くそんな仲間を観察し、不安に満ちた目の色やあきらめ切った表情を見ては、若し移民にならなければ、彼らにはどんな未来が待っていたのであろうかと想像をたくましくするのだった。いつも鋭い観察力を見せ、実利主義で思量深い半藏は素晴らしい研究者になり、何かとてつもない病気の治療法を見出して研究者として陽の目を浴びたかもしれない。青白い顔と小さな目をしていたが、いつも笑顔を絶やさず寛大な心の持ち主として、みんなの人望があった。いつも悲観的な話は避け、自己の意見を表に出すことなく和を重んじていた。
半藏はシンサキとは正反対だったのだ。シンサキはいつも不満を露わにし、兵譽と同じで、与えられた環境に順応することはなかった。まばらな髭を人差し指に絡めながら黙って考えている様は、良からぬ事を考えているように見えた。
グループの中でただ一人のカトリック信者の武雄は思量深い男であった。いつも聖書を手にし、絶食し、祈りを捧げていた。時々、聖書を開き、唇を動かしながら、何か秘密を囁いているかのように読みふけっていた。誰にも迷惑をかけず、宗教に関する話題も避けていた。仲間たちには自分の主義主張を明確にし、翼賛会の目標をはっきりと掲げていた。三角形の顔立ちをし、癖のない真っ直ぐな黒髪の持ち主は何事にも動じなかった。楽しい便りや悲しい便りも彼の諦観した心を動かすことはなかった。