「歩いていたら、1機の飛行機の音が聞こえた。空を見上げるとアメリカの戦闘機のB―29が飛んでいて、2つのパラシュートが投下された。突如として大きな光が見え、私はそのまま気を失ってしまった」
何年か後にイギリスの新聞「ザ・タイムス」のインタビューで彼はこのように回顧している。
大火傷を負ったものの山口氏は翌日、長崎の自宅に帰りついた。彼は、アメリカによる長崎での原爆投下当時もその場にいたのだ。
「二度に渡って放射能を浴びたことを政府は公式に認めてくれた」と山口氏は二〇〇九年に語りつづけ、「このことは、私の死後も若い世代に原爆の恐ろしさを認識させるであろう」と結んでいる。
生き残った多くの被爆者は、放射能を浴びたことによる後遺症、特に癌などに悩まされた。山口氏は左耳が聞こえなくなり、白血病、白内障やその他の原爆病に悩まされつづけた。娘のトシコは毎年夏になると父親の髪が抜け落ち、火傷の後もひどくなっていたようだと語っている。冬には、風邪を引いて、肺炎になりやすいのだった。
山口氏が日本で知られるようになったのは、あちらこちらで戦争の恐ろしさについて講演して回り、世界から原爆を無くする運動に積極的に参加していたからである。
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イーリャ・グランデでは、看守のオタシリオがその日のニュースを伝える役目を仰せ付かった。彼は日下部を呼んで、
「仲間に日本が地図から消えたと伝えてくれ」と真剣で、思いやりを示す眼差しで伝えたのだ。
「何を言ってるんだ?!」と日下部が聞き返した。
「日本に強力な爆弾が落とされ、町全体が亡くなったと聞いた。幾万人も死者が出たそうだ」とオタシリオが答えた。
日下部は蒼白になり、眼を大きく見開き、大声を上げたい衝動に駆られた。
しかし、看守の知らせが事実を大げさに伝えているのではないか、とすぐ思いなおした。新聞がないかとオタシリオに問い、彼はすぐに取ってく来てくれた。
朝刊のフォーリャ紙は死者の数や町の崩壊、それに、その行為によりに各国が原爆による軍備拡張に走るようになった事実を無視し、アメリカの出先機関が発表する情報、つまり、原子爆弾が科学的、技術的な大進歩であることのみを強調していた。アメリカはそれ以後、戦争の主導権を握るようになった。以下は当時の新聞記事をそのまま抜粋したものである。
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ワシントン、6日―トルーマン大統領はアメリカが20億ドルを費やして「歴史上最も偉大な科学調査」を行い、その効果として、広島の軍事基地に日曜日に投下された「原子爆弾」の発明に成功したと発表した。
同爆弾は20トンのTNT(トリニトルエン)より威力があり、イギリス製の爆弾で戦争史の中で最も威力ある爆破だとされた「グランド・スラム」より2千倍の破壊力を持っている。
行政官房長官は新兵器が「破壊力において革命的な時代の夜明け」だとコメントしている。また、爆弾を生み出すための作業員は1万2500名の手を要したとも発表している。
トルーマン大統領は次のように述べている。
「日本の重要な軍事基地、広島に1機の戦闘機が爆弾を投下して16時間が経った。この爆弾は20トンのTNT(トリニトルエン)より威力があり、イギリスの「グランド・スラム」より2千倍の破壊力を有する。戦争史上で使用されたどのような爆弾よりも偉大ものである。
日本はパールハーバードを空から攻めて戦争を始めた。その代償は既に利子つきで返している。しかし、まだ終わってはいない。この爆弾により、わが国の軍備力を更に強化し、破壊力を更に強め、新時代を築いたのだ。現段階では、この爆弾は既に生産が続けられている。もっと威力を発揮するための研究も行われている。
それは「原子爆弾」である。宇宙の基本的な威力に挑戦したのである。太陽が熱を得るための威力を隔離し、極東において戦争の火蓋を切ったもの達に対して投下されたのだ。