ジーン・ルッセルやリタ・へイワースといった上品な女優に魅せられていた。その頃の女性はハリウッド女優の髪型に憧れ、同じような髪型をしたがっていたのを知り、英新は理容師の勉強を始めることを思いついたのだ。
リベルダーデ区の理容師協会に申し込み、ウェーラ美容製品社の講座も受け、その後、すぐ彼は美容師として働き始め、ベレン区のカツンビ通りに理髪店を開けた。そこでは、彼は自分の名前がポルトガル語のくしゃみを連想させたり、お客さんに覚えにくい名前であったこともあり、「エデン」と改名していた。
理髪店では英新は白いシャツにネクタイ姿を通していた。理容師が伝統的に着用している白い上っ張りは着なかった。好きではなかったし、もっと格好よく、品位を保ちたかったからでもある。
このような姿の英新はイタリア娘の看護師カンディダ・パンニアの関心を引いた。二人は交際するようになり、そして結婚した。人生とは不思議なもので、州の衛生局の公務員だったカンディダは、名前も役割も変わってしまった移民収容所で、六〇年代から看護師として勤めていたのだ。
収容所は内国移住者を受け入れるための機関に様変わりし、ブラジルの東北地方の旱魃から逃れてサンパウロにたどりつく人々を受け入れていたのだ。
英新は、サンパウロ市の東部にあるグァイアナゼス区に住む妻の家族と同居するようになった。何もなく、駅からも離れたところにある家には姑と三人の義兄弟が住んでいた。英新とカンディダ夫妻は結婚して一〇年近く経ってからヤラとリカルドという二人の子どもを授かった。姑のフランシスカは娘夫婦が共働きをつづけられるように長い間、孫の面倒をみた。
フランシスカは乱暴な動作でいつも口汚く誰かれの見境なく怒鳴り散らし、いつも不機嫌だった。少し大きくなってから、子どもたちは皿洗い、家の掃除などの家事や、植木の手入れを手伝わされていた。フランシスカは孫たちが遊んでいるのを見るのが嫌いで、また、何もしていない孫を見ると、すぐさま箒をもち出し、掃除しなければいけない場所を指すのだった。
英新の義兄のジョゼは、自動車の修理工だった。しかし、ある時期、彼はレスラーを夢見たこともあった。大柄(身長190m)なこともあって「モンターニャ(山)」という名を興行主につけられていた。大柄で筋肉隆々といった体だったが、彼は重いものといったら、車のタイヤ、バンパー、エンジンといった類のものしか持ったことがなかったのである。
サンパウロ市の北部にあるCMTCクラブで何度かリングにも上がったが、技術もなく、動作が鈍いこともあって、他のレスラーのいい「食い物」になっていた。しかし、彼のパンチが命中すると、必ず相手を倒してしまう威力をもっていたのだが、そのうち彼もアルコール依存症になり、レスラーへの道は断ち切られてしまった。
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大政翼賛会の首謀者がみな自由の身になってから一年経った頃、日系社会にくすぶっていた不満が噴出されるようになった。ブラジル政府に対する不満を隠す必要もなくなった移住たちは、戦争時代に枢軸国の敵国に属しているとされて没収された財産を取り返すべく裁判を起こすようになっていたのである。
スマレー区でブラジル人と日系人の関係をさらに悪化させるような悲劇が起きた。五〇代くらいの男性マツモト・オナゲが狂気の沙汰ともいえる事件を起こしたのだ。
彼はエスタソン広場にある店に押し入り、店主のアントニオ・ダ・ルスを含む三人のブラジル人を殺害したのである。
マツモトは沖縄出身で、妻と四人の子を連れて一九三三年にブラジルにハワイアン丸で移住してきた人である。怒りっぽい性格で、コーヒー園の親方の怒声にがまんがならず反抗して、多くの敵をつくっていた。
また、コーヒー園では働く労働者の前で、見せしめのために鞭で打たれ、顔面の左側に傷が残ってしまったほどであった。それから後は、家族と共に隠れるようにして住みながら、復讐の念に燃えていたようだ。