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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(29)

 マツモトは長年にわたり苦しんでいたのだが、末娘が長患いの後に死んでからは、働かなくなり、エスタソン広場の店に借金を重ねていた。借金を払うことを執拗に迫られ、また、脅迫もされ、マツモトは借金を取立てる店主とそれを止めようとした店に居合わせた二人の客を殺してしまったのだ。
 彼は逮捕され、拷問を受け、もよりの警察署の小さな牢屋に投げ入れられた。裁判官が彼を狂人と見做し、サンパウロ市からそう遠くないフランコ・ダ・ロッシャ市のジュケリ精神病棟に入れてしまった。他になす術もなく、家族はコーヒー園で仕事をつづけ、マツモトは気狂い病院で死ぬまで過ごすことになった。
 日本人がブラジル人三人を殺害した事件はあっという間に広まった。今日のように殺人事件が日常茶飯事ではない時代である。興奮する市民を鎮めるのが大変だったという。
 市民に人気のあった当時のサンパウロ州知事のアデマル・デ・バーロスは、日系人が集中している区域に世界で名の知れた水泳選手を招待することを約束した。
 「飛び魚」と呼ばれた古橋、浜口、橋爪並びに村山といった水泳選手たちである。
 日本の水泳チームは、日本がいまだかつてない戦争の爪痕がまだ生々しく残っているのに、負け知らずの強さを誇っていた。彼らはカンピーナス、リンス、アシスを訪れ、スタジアムに多くの観衆が押し寄せた。
 ヒーローを近くで見られることは、日本人にとって大きな誇りであった。なお、「飛び魚」たちはヘルシンキのオリンピックでもその才能をいかんなく発揮し、水泳種目のほとんどを独占し、多くのメダルを獲得した。


第10章  祖母

 幾千代は一九五〇年の初頭に亡くなった。彼女は最期の日々をイタケーラの農園で、土地を又貸ししていたイタリア系の家族に看取られながら逝った。
 アンドラーデ一家は彼女を家族の一員として迎え入れ、最期まで世話した。六四歳になっていた幾千代は病気になり、痩せ細っていた。足が弱く手は震え、体は前屈みになっていた。
 彼女は世話になっている家族の負担をなるべく軽くしようと思ってか、できるだけ台所に入り食事の用意をしていた。エイゾが母親を残して最後に出て行った後は、英新だけが彼女を訪れていた。
 重い農機具や鍋を物ともせず運んでいた彼女も、すでに歩くのさえ困難になっていた。一日の大半を彼女は黙って、小さな椅子に座って長いこと門の所にいた。
 たぶん、彼女は誰かが彼女のことを思い出してくれるのを待っていたのであろう。英三と最後に連絡を取ったのは英新とカンディダ夫妻で、その日付は二人とも覚えていないという。
 当時、英三は病気でサンタ・カーザ・デ・ミゼリコルディア慈善病院で診察を受け、入院の順番待ちをしていたそうだ。それからは彼とは音信不通の状態がつづいている。

第11章  畳の上の師

 一九五〇年初頭に兵譽はリオに辿り着いていた。彼は囚人仲間の消防士セバスチオンを訪ねていた。セバスチオンはドゥケ・デ・カシアスに住んでいたので、父親の家に彼を迎え入れてくれた。
 兵譽は写真でしか見たことのなかったアパレシダ・マリア・ダス・ドレス・フェレイラに紹介され、何カ月か交際した後に彼女と結婚した。口数の少ない彼女は明るい色の服を好んで着、褐色の肌と黒い光沢がある髪を目立たせていた。
 セバスチオンの両親、エレオマルとイダリナはバイアの奥地出身で、より良い生活を求めて、エレオマルの兄を頼って、兄が牧畜で生計を立てていたサンパウロ州のモジ市に最初に出てきていたのだ。
 両親がバイアの奥地を後にした頃、セバスチオンはまだ子どもで、アパレシダ・マリアはモジアナの農園で生まれた。
 そこから、家族はリオに移り、その後、親戚の世話で、エレオマルはリオ~ニテロイ間の渡し舟で働き始めた。最初は掃除要員として、そして定年退職する頃は切符売り場で働いていた。