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田中慎二『日系美術史』刊行=資料蒐集30年余りの成果=「絵描きの目で見た深い内容」

豊田豊さん、宮尾進さん、田中慎二さん

豊田豊さん、宮尾進さん、田中慎二さん

 「絵描きの目で書いたすごく深い内容になっている」――21日夜に文協ビルの県連会議室で行われた『ブラジル日系美術史』刊行記念会で、宮尾進サンパウロ人文研顧問は、田中慎二さんの著書をそう称賛した。当日は芸術家仲間らを中心に約50人が出席し、初めての本格的な日系美術史の刊行を祝った。

 最初に本山省三人文研理事長は「田中さんにしか書けない本」と紹介し、画家仲間の若林和男さんも「今まで耳で聞いてきただけの諸先輩の生き様を、今回の労作は文章にしてくれた。すべての日系芸術家にとって感謝に堪えない」と著作の意義を語った。豊田豊さんが音頭を取って乾杯し、和やかに談笑した。
 田中さんは1935年1月に福岡県博多市で生まれ、55年にボリビアのサンファンへ移住、60年に出聖してパウリスタ新聞に入社した。その後、『農業と共同』誌で宮尾編集長の下で10年ほど記者を務め、週刊『コチア新聞』でも各地の単協デポジット(流通倉庫)探訪記事を毎月発表するなど経験を積んだ。
 それを活かして『文協40年史』『同50年史』『援協40年史』『半田知雄―その生涯』に加え、長野県人会や兵庫県人会の記念誌などの執筆・編集になどに携わってきた。
 田中さんは『移民70年史』の美術史章を担当して以来、30余年もコロニア美術界の動向に関する資料を蒐集し続けていた。今回の美術史は元々、宮尾さんが執筆するはずだったが、体調不良などで難しくなり、田中さんに依頼した。田中さんは最初「自分には無理」と断ったが、最終的には「〃編集長〃の依頼は断れない」と引き受けた経緯がある。
 田中さんは今回の著作に長い資料蒐集の成果と、宮尾さんや仲間から提供された資料の内容をつぎ込んだが、それでも「本当はもっと調査したかった」と言う。
 例えば次の戦時中の苦難を描いた記述は、先輩諸氏からの内密な伝聞があったからこそ、今回移民史として定着させることができた内容だろう。
 《上永井(正)よりも前に(リオ国立美術館のサロンで)銀賞を獲得し、無鑑査になっていた高岡(由也)さえ、戦時中にリオのポン・デ・アスーカルから見下ろすとまる見えの要塞付近で絵を描いたため、スパイ容疑で拘置所にほうり込まれている。玉木勇治もくさい飯を食った一人だし、上永井の下で修業していた永沢もリオの風景を写生中に拘引されている。サンパウロではお茶の水橋で写生していて逮捕されたものなど、自由にスケッチ旅行もできない日本人画家にとって苦難の時代であった》(125頁)
 81歳の田中さんは「あと一冊、今まで描きためてきたイラストや作品を散りばめた自分史のようなものを作りたい」とまだまだ意気軒昂なところを見せた。