「楽しかったですよ。僕の性分にぴったり合っていた」。20年間、イビラプエラ公園の開拓先没者慰霊碑清掃を欠かさず続けてきた村崎道徳さん(みちのり、85、二世)は、そうすがすがしい顔で言う。「通常は週に2回。日本から来賓が参拝する時などは、週に何度でも、その前に行って奇麗にする」。今年の3月に交代し、比嘉清さんに譲った。管理する県連の創立50周年式典(7日)では、慰霊碑の重要性が改めて見直された▼慰霊碑建設を提唱したのは、日本海外移住家族会連合会の初代事務局長、藤川辰雄さんだ。彼は16年間に渡って移民を送り出し、日本側留守家族と南米現地との親睦に努めた。自分が送りだした移民はその後どうなったかと視察を重ねる中で、無縁仏になった人のあまりの多さに愕然とし、供養せねばとの心境に至って辞職、57歳にして出家した▼岐阜県人会の元会長、山田彦次さんから、以前こんな話を聞いた。「奥地の原生林の開拓に家族で入った女性は、お産を始め生活の様々な点で特に大変だった。子どもが死んでしまう。ちゃんとしたお墓もない、戸籍もない。しかたなく植民地に埋めて、別の場所へ移動する。何年かたってそこへもどってみると、埋めた場所になんの痕跡も残ってない。再生林や町になっている。移民の百年の歴史は、そういう積み重ねなんですね」としみじみ語った▼鬱蒼とした開拓地で、車もない、電気もない、医者もいない、総領事館も近くにない。そんなところに入った移住者はざらにいた。その結果、マラリアなどの風土病や怪我でバタバタと斃れて行った人も多い。だから移民が日本語学校の次にまっさきに作ったのは日本病院だった▼藤川さんは、自分が背中をたたいて送りだした人たちの、その後を辿る中で《墓標をも再生林に消え去りて鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)ビラアマゾニア》と詠む。アマゾン高拓生の墓地を探しに行き、密林の中から見つけられなかった無念の心境を詠んだ一首だ。浮かばれない移民の亡霊が恨めしさに泣く声が聞こえるようになったのだ▼最後に藤川さんはアマゾン河中流の日本人墓地を望む対岸で消息を絶った。地元警察の公式な記録は「水浴中の溺死」。でも記録映像作家、岡村淳さんは実録映画『アマゾンの読経』(2004年、316分)の中で、「今思えば最初から計画的な行動だったようにも思える」などの驚くべき証言を集めた▼同映画によれば、藤川さんが最後に残した絶筆メモには「無縁仏が呼んでいる声が聞こえる」「事故死の霊感を受けるに至る」とある。鬼哭に惹かれるように覚悟の上でアマゾン河に入水し、自ら無縁仏の側へ渡ってしまったこと伺われるという。それらが祀られているのが件の慰霊碑だ▼村崎さんは「数年前、ある南米の日本国大使が参拝に来たときは本当に頭にきた。だって横の人とおしゃべりしながら、なおざりに記帳。一礼もせず、手も合わずに行っちゃった。よくあんなことができたもんだ。前代未聞」と話しながら目を潤ませるぐらい、今も強く憤る。当然だ▼1923年に関東大震災が起きて移住希望者が激増、当時最大の送り先だった米国が24年に排日移民法を成立させて扉を閉めた。直後、日本政府は国費で船賃まで負担して、移民を積極的にブラジルへ送り出すようになった。国策移民開始だ。「ブラジルには金のある木がある」との宣伝までして送り込み、結局はこの慰霊碑に祀られた人も多い。藤川さんが謎の死を遂げたのは1986年9月20日―。慰霊碑の重要性が再認識された今年は、奇しくも30周年だった。(深)