1952年6~7月は寒い冬だった。練習していたマリリアのプールがあまりに冷たく、練習を諦めることもあったほど。理想的な五輪準備にはならず、一時は「ただ参加できればいい」と諦めようかと迷うほどだったようだ。
ちなみに、今回のリオ五輪は、近代オリンピックとしては第31回目で南米初。それ以前に南半球で開催したのは、2000年のシドニー大会のみ。このように五輪はほぼ北半球の大会なので7~8月に開催される。「夏の五輪」であっても南半球では真冬であり、現在のように温水プールが普及していなかった当時、このハンデは大きかった。
でも岡本はあきらめなかった。映画『競泳選手』には、興味深い証言がたくさん出てくる。たとえば、同じヘルシンキ五輪の競泳選手団の一人、イロ・ダ・フォンセッカさんは、こんな証言をする。
直前の合宿はリオのグアナバラのプールだった。《そこで一緒に練習した。〃一緒に〃といっても、実はちょっと違うんだ。我々は毎日800~1千メートル泳いた。彼はそれが終わるの待って、一人で黙々と泳ぎ始めるんだ。何をやっているんだろうとコッソリのぞいてみたら、なんと休みなしに4千~5千メートルも一気に泳いでいたので、奴はキチガイだと思った。しかも1日2回だ。なんでも日本の水泳団直伝の練習法だとか》と呆れたような表情で思い出す。
サンパウロ州と違い、リオは冬でも暖かい。それまでの遅れを取り戻すかのように懸命に泳いだ。
ヘルシンキでは、生まれて初めて温水プール(約27度)を体験し、「こりゃ素晴らしい」と感激した。パウリスタ新聞1952年8月13日付には、母ツヨカは現地の息子から「毎日練習に励んでおり、千五百には最後まで頑張るから」との手紙をもらったと書かれている。その言葉のとおり、最後まで踏ん張った成果が夢の銅メダルだった。
同紙には姉のコメントも掲載されている。「哲夫の三位入賞はちょっと意外だったの。せいぜい五位か六位に入れば良い方と思っていたのが三位でしょう。それが水上で初めてのブラジル国旗なのでヤーラ倶楽部の皆さんを始め、哲夫の友達や知人、とくにブラジル人の方々から心よりの喜びの言葉を戴いたので、私までボーッとしちゃったの」とあり、家族も驚くような大健闘であったことが分かる。
興味深いことに、3位を報じたパウリスタ新聞52年8月3日付は、多くの伯字紙がしたような大きな扱いではなく、控えめな3段記事だった。
ちなみにパ紙のその日のトップは「マカコ事件」。まさに勝ち負け問題の余韻がまた色濃く残っていた時代だったことが伺われる。カタは移民史映画製作の裏話。こちらもやはり勝ち負け絡みだ。
1位の紺野フォードは1933年にハワイ州で生まれ、ホノルルのマッキンリーハイスクール、オハイオ州立大学でも競泳選手として活躍した。1952年のヘルシンキでは金メダル二つと銀一つの計三つ、次のメルボルン五輪(56年)でも銀一つを獲得した米国競泳界のヒーローだ。
つい2年前の1950年にブラジル中を沸かせた来伯団の一人、橋爪と争って表彰台に立った岡本の胸中には、さぞや感慨深いものがあったに違いない。
ところが、肝心の「フジヤマの飛魚」本人、古橋廣之進は南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、ヘルシンキ本番では400メートル自由形8位に終わった。
11年6月7日付日刊スポーツ電子版にはそんな古橋に関し、《世界記録を33回更新し、戦後復興のシンボルとなった国民的ヒーローは、結局五輪のメダルを1つも手にすることなく現役を退いた。50年の南米遠征でかかったアメーバ赤痢の影響もあった。45日間で20試合、サーカスのような転戦。各国の日系人から歓迎され、水泳ニッポンの「顔」は休むことも許されなかった》とある。当地からすると、少々あてこすりのニュアンスに読めなくもない。(つづく、深沢正雪記者)
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