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道のない道=村上尚子=(2)

     虐  待

 その手をついている父が、母へどのようなことをしてきたのか、話すには勇気がいる…… 日本でのことである。
「ひいーッ!」
 いつものように、母の悲鳴にハッ!とすると、父が野球のバットを握り、彼女を追いかけてくる。口元をゆがめ、今にも取って食いそうな目である。母は隣の、親戚の家へ飛びこんだ。
「どこに隠れても、引きずり出してやるぞ!」
 と迫って行ったが、親戚の者たちは、家の裏口へ母を通した。いつものことなので、無言で隠してくれた。
 さすがの父も、他人の家までは入って行けず、引き返した。こんな日はとても幸運な日であったのだ。
 ある日などは、私が外から帰ってみると、炊事場の片隅に母を追いつめた父は、倒れている母の背中を鍬で打ちすえている。その鍬が、打ち下ろされるたびに、母は壮絶な悲鳴を上げ続けた。私は走った。近所の池田さんへ助けを求めに……。池田さん夫婦が駆けつけた時は、母はもう座敷に布団を敷いて、その上にのびていた。その母へ父は、
「昼間から寝やがって!」
 というやいなや、思いっきり蹴上げた。しかし母は、動かなかった。が、まだ生きていた。こういった残忍な行為が、数限りなく続いていたのだ。その飛び火は、長女の私だけにきた。その暴力に、母は父と一緒になって加勢して、手を出した。後で母に打ち明けられて唖然とした。それは、「わたしが手を出して、あんたを叩くと、お父さんが止めるんよ。お父さんが叩くと、激しいきね(からね)」。母のは私を助けるためだった。私は父の暴力に耐え切れず、何度も家から逃げた。家出などという、計画的な行動ではない。ただただ避難したのだ。
 あれは、私が十三歳の時である。ある雪の日、はだしで飛び出し、学校へ向かった。美代子という生徒のひとりが、そのただならない私の格好を見ただけで、理解した。彼女は持ち合わせの小遣いの、ありったけを私に持たせた。
「ワラぞうり、買いなはい(さい)」と言って……。
 彼女とは特別に深い仲の友だちでもなかった。あまり裕福でもないのに。忘れられない人だ。
 そのお金の一部を使って、汽車に乗り込んだ。四ッ目の駅で降りてみると、雪は止んでいた。少しくすんだような古い町である。駅の名はもう記憶にない。あてもなく街並みを歩いた。ワラぞうりは、まだ買っていない。
 このわずかなお金を使ったら、おしまいである。それにもう足先の感覚は無くなっている。
 この時、背後から実に優しい男の声がした。ふり向くと、中肉中背の四十歳くらいの人である。彼は、温かい目で、私の足元を見ている。二、三話しかけてから、「おじさんに、ついておいで」という。
 横に並ぶと、私をかばうようにして、歩調を合わせてくれている。やがて男は、とある履物店に入って行って、目の覚めるような赤い鼻緒の下駄を買ってくれた。
 こんなきれいな下駄は、履いたこともない! 宝物のように撫でてみた。その下駄を履くと、男は言った。
「ちょっとすぐそこにある公園に行こう」