その頃、茂夫とは、軽く付き合ってはいた。けれども、結婚など考えてもいなかった。当時の多くの者は、父親の意見には、従わなければならなかった。私の父であれば、絶対服従である。それでも強く抵抗した。
「いやばい(いやです)」懸命に言い続けた。父に言い含められている母は、深刻になり、私を説得した。
「お父さんが、どうしてもち言うき、言うことを聞いておくれ」
強く訴える母に、あの頑とした父の顔が重なった。私の主張など通用する父ではない。が、母には、自分の思いは言うだけでも言いたかったのだ。一方では茂夫を口説いていたらしい。茂夫の方は難なく落ちた。まだ少年に毛の生えたような者である。私の父というものを全く知らない彼は、未知の世界への好奇心もあり、喜んで承諾したようである。
それからは、結婚式も何もあったものではない。大変慌しい事の運びようで、二人の結婚が市役所に登録されてしまった。農家の原田茂夫は村上茂夫という、にわか養子になった。彼は、自分が利用されていることも知らずに、明るい顔をしていた。もともと彼は、体は小さいが、健康で性格はカラッとしていた。
ということで我が家に、農業者が一人増えた。他人の息子を盗むようにして、移住の条件は整った。
労 働 力
仕事は、コーヒー園の草とりが主である。
日本と違って、育ちの良い草を、根の深いところから切って行くだけ。
その道具が重く、エンシャーダ(鍬)といって、持ち上げる時、思わず小さな声が漏れるほどである。これを振り下ろしながら手前に引く。その強い反動で草の根が切れるのである。私は始めてこのエンシャーダというものに、すがるようにして振り下ろした時、バランスを失い二、三歩よろめいた。十回もエンシャーダを振ったら、動けなくなった。それに私は妊娠していた。すでに船の中で、みごもっていたのだ。茂夫だけは初日から仕事に慣れた。
父は市役所に十一年勤めていた。母も市立病院で看護婦をしていた。やはり同じくらい勤めている。助産婦の資格も持っているが、ここでは何の関係もない。つまり二人とも百姓はしたことがないのだ。この母も今は病み上がりである。
あと、たった一人保明がいる。この十七歳の弟は、真面目で大人しい子であった。しかしこの、どえらい大仕事に二人でどうやって立ち向かうのだ……。今はどんな者の手も借りたい。それゆえまだ幼い妹が、大切な労働力として駆り出された。無口な妹は、不満ひとつ言わず、毎日コーヒー園について来た。
母の話に戻るが、彼女は日本を出る前に、手術をしている。重度の胃潰瘍で、胃の三分の二を切り取ったのだ。長い年月、父が母へ加えた虐待による精神的な打撃が、こういう形で出たのは明らかだ。たった今でも横にさせてやりたい、小さな痩せおとろえた体……指先で押しただけで倒れそうである。それでも人手の足りない我が家としては、炊事洗濯を、彼女の役割にせざるを得なかった。私たちは朝早くから、日の沈むまでがんばった。
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