「私たちの親や祖父母の時代、いかにブラジル政府は日本移民を差別していたか。それは法律にはっきり表れている。二度と繰り返さないように、それをまとめようと思いました」――サンパウロ市在住の弁護士、白石チエコ・ミルテスさん(52、三世)と、弟でマラニョン連邦大学の白石ジョアキン・ネット教授は、そんな思いを込めて共著でポルトガル語著書『Codigo Amarelo(日本人移民関連法令集)』(EDUFMA刊)を編著し、先日発刊した。
ブラジル帝国開始以来、ほぼ2世紀分の大量の法律の中から、日本移民を差別、区別する16法令を集めた労作だ。
最初は、1870年7月9日付「暫定令4547号」でアジア系労働力の導入を許可した。翌1871年にはサンパウロ州政府は移民収容所建設、移民の渡航補助や目的地までの輸送費補助を決定し、予算を配分した。だが当時もっとも歓迎され、大量に導入されたのは「国民白色化政策」にのっとったイタリア移民だった。
続いて1890年6月28日付「暫定令538号」はアジア系人種導入を制限した。前年6月に発足したブラジル共和国仮政府が策定した「外国移民配置規則」には、移民労働者の入国は自由、ただし「アジア人及びアフリカ人(インド人)はこの限りにあらず。右両者は随時定める規定により、議会の許可を得た時だけ入国できる」との条件を付けた。事実上のアジア系入国禁止、これが「ブラジル共和国」としての原点だ。
奴隷扱いされたイタリア移民がコーヒー園就労を嫌うなど人手集めに苦労した政府は、結局はアジアに労働力を求め、1890年9月に伯中修好条約が締結した。それを契機に1892年10月5日付「法令97号」で中国人、日本人の導入を許可。
これを受けて根本正代議士が官命をおびて中南米視察をし、1894年9月にはブラジルへ。移民有望の地と報告し、1895年に日伯修好通商条約が調印された。
その流れの中で、第1回移民船「笠戸丸」が1908年6月に到着。日露戦争以降に米国で広まった黄禍論や、1930年のバルガス革命からのナショナリズムの高まりを受け、1934年憲法の121条補項第6として「外国移民二分制限法」が公布された。
外国移民は過去50年間に定着した総数の2%(二分)しか毎年入ってはいけないという制限だ。過去半世紀に大量に入ったイタリア系、ドイツ系などはこの制限は実質意味をなさず、日本移民を直撃する法令だった。
白石さんは「最初はデカセギのことを調べていました。でもそれを語る前に、日本移民の原点に戻らなければと感じていた」と調査のきっかけを説明する。
「親の世代は身体を酷使して、私たちに教育を受けさせた。そうでもしなければ社会上昇できない現実がブラジル社会にあった。厳しい差別された歴史があったから、より良い生活をする夢を子供に託したという流れ。そう調査の過程でしみじみと感じた」と述べた。
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