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道のない道=村上尚子=(10)

 ある日のこと。
 保明が、裏の原始林へ狩のため入っていった。彼は二時間くらいして戻って来た。弟の手には獲物は無く、ぐったりとしたタロが抱き抱えられている。タロの息はもうなかった…… タロとは、家で飼っていた大きな犬の名前である。おとなしい目をして、みんなに遠慮勝ちに付いて回っていた。うす茶色の短い毛の彼は、この日も弟に寄り添って、狩に付いて行ったのだ。弟は狩をする時の心得を、私たちに教えてくれたことがある。
 その一つに、動物がどこから現われて来そうか、見当をつける。更に、風向きを調べて、風下になる位置の、木に登ってじっと音を立てないようにしている。なぜなら人間の匂いを動物に覚られないためだという。
 そしてこの姿勢で、長い時間待つのだそうだ。
 この日も、すっかり日は落ちて、星明りで木の上から見下ろしていたところ、ギラッ! と光った。即、銃を放った。木から降りてみると、なんと! あのタロが血みどろになって、横たわっている。動転した弟は、思わずタロに手を差し伸べた。すると、この瀕死のタロが、やっと重たげに首を持ち上げた。タロは優しい目で、弟を見上げ、ぺロリ、ペロリと力なくその手をなめた。三回なめてこと切れたという。無言の弟は、その夜すぐにもとの場所へ引き返した。彼の悲しみは、持って行き場もなく、わけの分からない怒りに変わった。
 まるで仇でも討ちに行くような眼差しで、再び引き返して行った。
 まもなく、大きくよく身のついた鹿を、引きずってきた。人間の倍はある。そこで、あの板とも丸太ともつかない、頑丈なテーブルの上へその鹿を乗せた。獲物は決してこのように簡単に、仕留められるものではない。しかしこの日は、大変な食糧が手に入ったわけである。鹿という実物を、それもこんな間近に見るのは始めてである。うす茶色の毛並みは、短くしなやかである。優しい顔は今にも目を開きそうにして、眠っているようだ。お腹のあたりに目をやると、毛色は白っぽく、まだ体温が伝わってきそうだ。その時である!  いくつか並んでいる乳首から、まだ温かそうな白いものが流れ始めた。包み込むような、やわらかな色である。私は声を上げた!
「これはメスの鹿やが! 子供がおるとばい……」
 見下ろしていた家族は、全員が無口になった。なんとも苦しそうな弟の声がした。
「ぼくは、その子供だちが、どのへんにおるか、大体わかっちょる」
 元気な赤ちゃんたちが、ぴょん、ぴょんしながら、母親の帰ってくるのを待っている姿が目に浮かんだ。
 それでも、私たちはその鹿の肉を食べた。あの味にならない味が、今も私の体の中に残っている……
 入植して一年も立たないうちに、ジョンソンが破産するらしいと、噂が伝わってきた。
 それから間もなく、穀類の供給が止まった。他の品も激減した。何の用意もない私たちは、これから先の生活をどうして行くのか、まったくメドも立たない。それにしても、あの取って置いたとうもろこしがどんなに有難かったか、手を合わせる思いであった。それを大事に使って、飢えを抑えながら、自給自足の体制をとらざるを得なくなったのだ。