前回の『北パラナの白い雲』を書いた折、筆者は取材のため、現地を10回近く訪れた。2013~15年のことであるが、その間、何度か南パラナにも足をのばした。
ただ、この南パラナ行は、事情があって、クリチーバとパラナグア湾の南岸地域に留まった。しかし幾つか印象的な話に接したので、ここで寸描する。
付記しておくと、南パラナというと、古くからクリチーバとその周辺地方を指すことが多い。しかし、地理的には、そこは東パラナと表現した方が適当である。どうして、そういうヤヤコシイことになっているのか、それに触れると長くなるので、ここでは省略する。
突如、日本人が皆、消えた!
南パラナにアントニーナという小さなムニシピオがあって、日本移民史に微かに、その名を留めている。
地図で見ると、パラナグア湾の奥に位置し、海岸山脈に近く、狭隘、辺鄙で魅力の無さそうな土地である。しかし、こんな処に1916年‥‥ということは笠戸丸から8年後だが、サンパウロ(市)から、ごく僅かの日本人が入植した。以後、後続者があり漸増した。
近くのモレッテス、パラナグアの二つのムニシピオにも、少数だが、住み付く様になった。
三カ所合わせても、最多時で70~80家族に過ぎなかったが、ある時、突如、皆、消えてしまう──という数奇な運命に見舞われている。
ところが、今日、それを知る人は少ない。
南パラナの玄関
順を追って話を進める。
16世紀の中頃まで、南パラナは森と草原、河川からなる原始のままの大地であった。インヂオが棲息していたが、白人は居なかった。
その白人がやってきた。
北から大西洋を海路、南下して‥‥。彼らは先ず(現在の)パラナグア湾の入口にある島に降り立った。ここで暫く露営、インヂオの敵意を探った後、南側の水路を渡って、陸地に移動、居住地を造った。ここが後のパラナグア市である。もう一つ、湾の奥にもつくった。こちらが、アントニーナである。
白人たちは、金を採掘し砂金を採取した。人数は次第に増えて行き、食糧確保のため、農業も営んだ。女たちもやってきて、子供も生まれた。
17世紀、彼らは西北方に聳え連なる山々(海岸山脈)の彼方に関心を寄せた。麓から山腹の森の中にピカーダ(小径)を伐り、登攀を試みた。
峠を越すと、そこは海抜900㍍余、起伏少なく気温冷涼で、居住に適した大地が拡がっていた。
その中央部に後年、クリチーバ市が建設される。
話は飛ぶが、1885年、パラナグアからクリチーバまで、鉄道が建設された。海岸山脈の中、処によっては断崖絶壁に‥‥という難工事であった。さらに、途中のモレッテスからアントニーナへ支線が敷かれた。
南パラナと他州、外国は、この鉄道と大西洋上の航路で結ばれた。
かくの如くで南パラナは、実はパラナグア湾から内陸部に向かって開発が進んだのである。
筆者は最初、北のサンパウロ州の方から‥‥と、思い込んでいたが、これは後年のことであった。
つまり、アントニーナは、パラナグアと共に、南パラナの玄関だったのである。
2014年、筆者はアントニーナを訪れた。湾に面して市街地があり、石畳の道の両側に、古風なポルトガル様式の建築物が並んでいた。それが、そのまま商店や住宅として、この時点でも使用されている──のには感心した。
近くにマタラーゾの製粉工場の跡があった。往年ここで小麦粉を生産、州内の市場に送っていたという。建物は半ば崩れていたが、品格ある煉瓦造りであり、昔は人目を引く威容であったろう。
郊外は、遥かに見える海岸山脈の麓まで、平坦な地形が続いていた。
アントニーナは、由緒ある歴史的なムニシピオであった。狭隘、辺鄙で魅力のない土地ではなかった。
ただ、大型船の時代が来ると、港は水深が不足、衰微したという。